(113)クライマックスは「倭潰城」

113扈城順天倭城

順天倭城の石垣

高句麗國第20代長寿王が実父である第19代好太王の顕彰碑を建てたのは、もちろん好太王が領土を広げたからです。しかし、もう一つのねらいはその正統な後継者である自身の権威を誇ることでした。

韓地の3族(百済、新羅、倭人)を屈服させ、慕容燕國の圧力を跳ね返すには、自分も一翼を担っていたのだという自負もあったでしょう。

実際、長寿王は即位した西暦413年、東晋王朝から「使持節都督営州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公」に叙任され、453年には後魏王朝から「都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王」の封爵を得ています。好太王、長寿王の2代、高句麗國は絶頂期にありました。

石碑第1面の「而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民」は、碑文全体で見ると実は序章に過ぎません。そのクライマックスは好太王碑第2面「十年庚子」で始まる以下の60文字です。

十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退■■■■■■■■來背息追至任那加羅從抜城城即歸服安羅人

十年庚子(400)、王は新羅を救うために歩騎五万を派遣しました。男居城から新羅城まで、倭が満ちていました。兵が行くと倭賊はたちまち退散しました。(8文字欠)その背後を追って任那加羅の抜城城に至ると安羅人が帰服しました。

概意はこんなところです。

これに続く「戍兵抜新羅城■城倭満倭潰城」については「戍兵(守備兵)、新羅城を抜く。■城倭に満つ。倭、城を潰ゆ」と3つに分けて読むのが一般的です。 概意は「守備兵が新羅城を占拠するという事件が発生し、■城には倭が満ちていました。倭は城に潰えました」です。

まさに前門の虎・後門の狼です。しかし好太王は大ピンチを見事に乗り切った、という話になっています。 ただ、接続詞がないので前後関係や因果関係が分かりません。

高句麗軍が從抜城に至った隙に新羅城が落ちたのは安羅の兵が奇襲をかけたのか新羅兵の内乱が発生したのか、それと「■城」がどう関係しているのか、です。

想像を働かせると、倭と安羅は高句麗軍を挟み撃ちにする計画だったけれども、倭が「■城」で潰えたので好太王は軍を引き上げた、ということになりますが、いまひとつ腑に落ちません。

もう一つ、「■城」は「扈城」と解する意見があるようです。そこで、「扈城」をネット検索すると、「順天東安扈城」という情報を見つけることができました。

現在の地名でいうと、全羅南道順天市の楽安邑城がそれに当たります。

順天倭城の趾、韓国文化放送(MBC)制作の歴史ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』のロケ地としても知られる民俗村の所在地というのは、何かの符合に思えてきます。

「倭潰城」のあとには18文字分の欠落があります。その内容如何で碑文の文意全体が変わってしまう可能性は残っていますが、石面そのものが割れ落ちているので復元は不可能です。

別の考古学的知見による新事実が出ない限り、碑文は「倭をコテンパンにとっちめて黙らせたぞ」と言っています。倭は、なぜそんなにも強かったのでしょうか。

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