(131)三輪・難波の2朝並立

131葛城高原

葛城高原(じゃらん)

 この連載の第120回目に、『晉書』宣帝紀に見えている「東倭」を取り上げました。正始元年(240)の春正月、「東倭重譯納貢」(東倭、訳を重ね貢を納む)というのです。「重譯」は「複数の言語の通訳を重ねた」の意味ではなく、「いろいろと説明した」の意味だろう、ということはすでに書きました。

 宣帝というのは三国の魏(曹氏)で相國を務め、晋の基礎を作った司馬懿のことです。彼は帝位に就く前に死去していて、その息子で晋の初代皇帝となった司馬炎(武帝)が皇帝の諡号を贈りました。

 『魏志倭人伝」によると、正始元年、帯方郡太守の弓遵が建中校尉梯儁等を倭国ないし邪馬壹国に派遣しています。帯方郡の使者が倭地に向かった同じ年(正月ですから梯儁等の数か月前)に、「東倭」が司馬懿に納貢したわけでした。

 晋の吏僚もしくは『晉書』の編者は、それを「晋への通好」と拡大解釈したのです。 魏への正式な遣使でなく、次期皇帝の最有力者への私的な通信使なので、「朝貢」でなく「納貢」という表現をしています。

 つまり『晉書』に見えている「東倭」は、漢・魏が公式に認めた(印綬を与えた)「邪馬壹国」(邪馬壹国を盟主とする邑国連合)ではありません。「倭人伝」は「東に海を渡って一千余里のところにも倭人の国がある」と書いています。

倭國王城の南遷と東征は、帯方界会戦の翌年(405)から倭讃上表の前年(424)の間と推測できます。「東倭」が奈良盆地の三輪王朝なのか、河内日下に展開した彼の支族ないし宗家の邑国なのか定かではありません。ですが、倭國の本拠地移動が「倭國大乱」を発生させなかったのは、そのような歴史的背景にも依っているようです。

 奈良盆地の三輪王朝や河内王統との間で戦いが全くなかったかというと、『書紀』イハレヒコ大王(神武)の東征譚のような戦闘はあったのでしょう。しかし熊野灘から紀伊山系を越えて奈良盆地に討ち入り、在郷勢力を葛城まで追い詰めて全滅させたというのは、後世の創作だと思われます。

 倭讃の王統は河内湾(河内湖とも。縄文海進の名残で現在の大阪市街がすっぽり海底に収まる汽水湖になっていました)の南に広がる難波平野に王城を築きます。以後、これを「難波王朝」と呼んだほうが格好いいし、分かりやすいでしょう。

 難波王朝と三輪王朝はしばらく併存しています。というのはイハレヒコの東征譚に、生駒越えの要衝である平群を制圧した記事がないからです。

 生駒山系をはさむ西側斜面は日下で、ニギハヤヒ=物部宗家の本貫地です。 河内湾(河内湖)をぐるっと北上した向こう岸に宗家がいて、その宗家は三輪王朝の支柱になっていました。

 実際、『書紀』における「物部」の登場頻度を調べると、三輪王朝時代はミマキイリヒコ(崇神):3、イクメイリヒコ(垂仁):5、オシロワケ(景行):2、ワカタラシヒコ(成務):0、ナカツヒコ(仲哀):1でした。5代で11回を数えます。

難波王朝になると、オホササギ(仁徳):0、イザホワケ(履中):3、ミズハワケ(反正):0、ヲアサヅマワクゴノスクネ(允恭):0、アナホ(安康):1となっています。5代で4回しかありません。伝説の王であるオキナガタラシ姫(神功)、ホムタワケ(応神)でも「物部」は登場していません。

 このことは、難波王朝が三輪王朝と別の王統であることを如実に物語ります。また、『書紀』はイザホワケが物部宗家の手助けで奈良盆地の石上に入ることができたことを伝えています。難波王朝と物部宗家の合意が成立したのでしょう。

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