(88)辰韓人が渡来した背景

088辰韓が渡来した背景

馬韓(Mahan)と辰韓(Jinhan)

『漢書』地理志燕地条が伝える「夫樂浪海中有倭人」の「夫」は、その前にある「故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也」(故に孔子、道が行われずを悼み海に浮を設け九夷に居するを欲す。以有る也)を受ける接続詞です。

孔子が道徳が薄れたことを残念がって、いっそ海に乗り出して東夷の中で暮らそうか、と言った。「有以也」は「なるほど」の意味でしょう。

紀元前198年に漢の武帝が衛氏朝鮮國を滅ぼして朝鮮4郡(楽浪・真番・臨屯・玄菟)を設置した。それで倭人が楽浪郡にやってきた、というのが教科書日本史の解釈です。「楽浪海中」は「海の向こうからやってきた」という意味ですから、出発地は全羅北道かもしれません。

また『後漢書』東夷伝が記す「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀」の遣使主体は、馬韓の地から博多平野に集団入植した韓王の末裔ないし、箕子の祖霊を祭祀する集団という空想も、一概に否定されるものではありません。

西暦1世紀の博多平野における倭人社会は、青潮グループを箕子祖霊祭祀集団が指導する構造と理解すると、黒潮グループとの違いが見えてきます。ただ、この時期の弥生埋葬遺跡は、比較的平穏な時間が流れていたことを物語ります。

多数の殺傷人骨は発見されるのは、弥生後期、西暦2世紀以後の埋葬遺跡です。華夏帝国の政情不安が北東アジア世界に混乱を誘発した「桓霊間」に当たります。その時期に辰韓から組織的な入植があって、倭人社会との間に軋轢が発生したことが考えられます。

山口県や鳥取県の砂浜に殺傷人骨遺跡が点在するのは、辰韓の人々が日本海を越えて上陸したことを物語ります。7世紀、竹斯(筑紫)國の東に「秦王國」があって、「其人同於華夏」(其の人は華夏と同じ)だったと『隋書』は記しています。「秦王」が転じてスオウ(周防)になったのでしょうか。

「辰韓」は現代の日本語(音読み)では「シンカン」ですが、拼音は「シンハン」です。武帝が置いた朝鮮4郡のうち「真番」ではないかとする考えもありますし、伝承では始皇帝が建てた秦帝国の移民が朝鮮半島に流れ着いて作ったコロニーということになっています。

『魏志韓伝」辰韓条は「名楽浪人為阿殘東方人名我為阿謂楽浪人本其残余人今有名之為秦韓者」(楽浪の人を阿残と名す。東方の人は我を阿と名す。楽浪人は元は残余の人、今之を名して秦韓)とあって、旧楽浪郡から移住してきたとしています。

また『北史』新羅伝は「居漢時樂浪地辰韓亦曰秦韓」「其言語名物有似中國人」と記しています。 その邑國を統治していた「辰王」「辰國」については実在、非実在の両論がありますが、小説的な観点では「辰王が部族を率いて日本海を渡ってきた」のほうがストーリーを組み立てやすいでしょう。

留意すべきは、辰韓の人々が組織的に海を渡ってきた事情が何だったか、です。 後漢帝国の統制力が弱体化し、遼東の公孫氏が自立に向けて動き出したことが背景にありました。

周辺異族に朝貢を強要し、拒絶すれば兵を差し向けるぞ、と脅したのでしょう。高句麗、馬韓の主流派は公孫氏に抵抗し、辰韓の主流派は難を避けた、ということでしょうか。

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