(108)碑文改竄説は正しい文献批判

108碑文

好太王碑文(レプリカ)

好太王碑文の拓本について、日本の研究者が目にしているのは偽造された碑文ではないか、という指摘がありました。宮崎康平さんの『まぼろしの邪馬台国』(講談社)をきっかけに巻き起こった「古代史ブーム」が一時的なものでなく、出版業界の1ジャンルとして定着した昭和四十七年(1972)のことでした。

それによると、明治十七年(1874)、日本に拓本を持ち帰った大日本帝国陸軍中尉だった酒匂景信が、碑面に石灰を塗って碑文を改竄した。諜報員として現地に入った酒匂中尉が、当時の大日本帝国の皇国史観に基づく対アジア戦略を正当化するためだった、というのです。いわゆる「酒匂本改竄説」です。

ところがその後、現地の人が拓本を高く売るために石灰を塗って文字をはっきりさせる工作を施していたこと、酒匂中尉に古代東アジア史の専門的な知識がなかったこと、1873年(酒匂中尉が現地を訪問した年)より前の拓本が中国で発見され、酒匂本はそれと全く同じだということが確認されました。現在、改竄説は完全に否定されています。

酒匂本改竄説については、大日本帝国の皇国史観ないし対アジア戦略を否定する観点で提示されたのではないか、と推測する声もあったようです。しかしそれなりに理論的な指摘が行われたからこそいろいろなことが判明し、酒匂中尉の名誉が回復されたわけでした。その意味でも基礎となる文献を評価すること(文献批判)は、非常にたいせつなことなのです。

碑文に戻ると、「倭が海を渡って来て百済、新羅を破って臣民と為した」という「辛卯年」(371)の出来事は、朝鮮3国(高句麗、百済、新羅)あるいは北東アジア5国(朝鮮3国+加羅、倭)にとって、とてつもない事件だったはずです。 ただし年紀は「以辛卯年」(辛卯年を以って)ですから、辛卯年=西暦371年に起こったとは限りません。

豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役では、日本軍は2回とも1年半にわたって朝鮮半島を侵略しました。辛卯の「倭」も同様だったのかもしれません。 にもかかわらず『三国史記』は一切記録に留めていません。またヤマト王権の記録である『書紀』も沈黙したままです。

さらに理解を混乱させているのは、『書紀』ホムダワケ大王(応神)紀三年是歳条に、 ――百濟の辰斯王が即位したが我が朝の大王に挨拶がなかった。それで使者を派遣して譴責したところ、百濟國は辰斯王を殺して阿花王に替えた。 という記事が出ていることです。

派遣されたのは紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰の4人で、そろって軍令指揮官クラスです。「是歳」に386年の辰斯王即位と392年の辰斯王暗殺・阿莘王即位が詰め込まれています。

同大王十六年(392)条に「是歲百濟阿花王薨」とあるので、同大王三年は西暦379年ということになってきます。 『書紀』の不正確な年紀からすると、ニアピンであることは認められるでしょう。しかも4人の将軍を送っているのです。それが高句麗國と戦戈を交えた記憶でなく、百済國とのイザコザとはどういうことなのでしょう。

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