(130)長寿王のねらいは百済王國

130呆気ない百済王国の消滅

5世紀後半の朝鮮半島南半情勢

長寿王(華夏名「高璉」)は394年に生まれ、491年に亡くなりました。数えで98歳というのは、現在でも長生きです。まして医薬品や医療技術が整っていなかった時代ですから、驚異的な長寿というほかありません。

高倭戦争で倭國は高句麗軍に怖れを抱きましたが、長寿王も「倭國侮るべからず」と考えたようでした。帯方界の会戦を機に倭國が王城を海峡の向こうに移したので、陸上決戦で倭國を押し潰すことはできなくなりました。そこで王は、外交で倭國を優越する手法を選択します。

宋・文帝の元嘉二十八年(451)、倭珍は「使持節都督」に叙任され、さらに「安東大将軍」に昇進しました。このとき指定された軍区は「倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事」とされています。

それを知った長寿王は4年後の孝建二年(455)、宋に入貢して修好を深め、第4代孝武帝の大明七年(463)に「車騎大将軍開府儀同三司」の叙爵を受けることに成功します。ただの大将軍でなく、幕府を開き三司(軍事、外交、内政)を設けることができる資格を得たのです。

「都督」を任じる立場になったのですから、倭國王の上をはるかに越えてます。 王はすでに北魏からも「都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開國公高句麗王」に任じられているので、誰に憚ることなく百済を攻めることができるようになったのです。

このころ東夷世界に儒教的な認識が浸透し始め、長寿王は大義名分を求めたわけでした。 ちなみに『書紀』における王位継承で、正嫡(正妻の年長男子)が優先されるようになるのはホムダ王統からです。倭国にも儒教的な認識が入ってきたということで、これも倭國が南遷・東征した傍証となります。

長寿王は毎年のように北魏に朝貢して忠誠を誓い、併せて百済王宮に諜報員や工作員を送り込みました。そのうえで475年、兵3万を率いて百済の漢城を急襲しました。

漢城は現在のソウル市、漢江の北岸にあった百済の王城です。おそらく百済の調を献じることを約束するなど、北魏の了解を取り付けたうえだったのでしょう。

不意を突かれた百済の蓋鹵王は、太子の文周王子に木刕満致と祖禰傑取の2人を付けて南に落とします。『三國史記』百済本紀では「使文周求救於新羅」(文周を使いとして新羅に救いを求めしむ)となっていて、太子が「兵一萬」を得て戻ったとき城は落ち、蓋鹵王をはじめ多くの王族が殺害されたあとでした。

百済王国はあっけなく消滅してしまいました。倭國に助けを求めなかったのは、倭國の王城が海を隔てた遠方に移っていたからでしょう。

『書紀』ワカタケル大王紀は「廿年冬高麗王大發軍兵伐盡百濟」(二十年の冬、高麗(高句麗)大いに軍兵を発し百済を盡く伐っす)と記し、「百濟記云蓋鹵王乙卯年冬狛大軍來攻大城七日七夜王城降陷遂失尉禮国王及大后王子等皆沒敵手」(百濟記は云ふ「蓋鹵王の乙卯年冬、狛の大軍來りて大城を七日七夜攻め、王城降陷し遂に尉禮を失ふ。國王及び大后、王子等、皆敵の手で没す」と)の補足を加えています。

ワカタケル大王二十年は西暦476年に当たります。年紀が1年ずれているのか、情報が1年遅れで届いたのか――いずれにせよ倭讃の孫世代の倭國にとって、半島情勢は「他人事」になってかに見えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?