(107)「渡海破」の主語は好太王か

107好太王石碑

好太王碑のレプリカ(大阪経済法科大学構内:大阪府八尾市)

高句麗國と倭人ないし倭國の戦闘を伝える記事は、『三國史記』高句麗本紀にも百済本紀にも出ていません。高句麗本紀の広開土王紀から読み取ることができるのは、即位(392)から治世五年(396)まで百済と戦い、治世十年(401)から十五年(406)まで慕容燕國と戦ったということです。個々の記事は紙幅の関係から割愛しました。

ところがWikipedia「好太王」には、『三國史記』に見えない記事がいくつか出ています。具体的には404年帯方界に侵攻した倭軍を迎撃、407年慕容燕國に侵攻、410年東扶余を屈服――の3件です。

それによって高句麗國の領土は、西は遼河、北は開原から寧安、東は琿春、南へは臨津江流域にまで広がった、とされています。領土を広げた、だから「広開土王」というわけで、つまりこの3件は中華人民共和国吉林省通化市集安市にある「広開土王碑文」によっていることは明らかです。

ちなみに臨津江の音は「イムジンガン」で、南北朝鮮を分断する非武装地帯を流れる川として知られています。4世紀(あるいはそれよりはるか昔)から、臨津江と漢江が朝鮮半島の南北分断線だったと言えるかもしれません。

もう一つ、『三國史記』における4世紀の記事に漢陽(漢城府、現在のソウル)が出てこないのは、縄文海進で大半が海だったためでしょう。

石碑は大王の業績を顕彰するため、没後2年の「甲寅年九月廿九日」(414年10月)に、その長子で第20代長寿王が建てたことが分かっています。四角柱の4面に、合計1802文字が刻まれています。好太王の即位から数えて22年目の記録です。まさに同時代史ですので、誇張はあっても重大な過誤や創作が混入しているとは思えません。

その碑文の第1面後半に「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残■■■羅以為臣民」(■は欠字ないし判読不能)とあって、教科書日本史ではもっぱらこの記事が取り上げられます。文中の「百残」は百済の蔑称とされています。

百残新羅舊是属民由来朝貢」は、「百済と新羅は以前は我が王朝に朝貢していた属民だった」で解釈は一致しています。その続き「而倭以辛卯年来渡海破百残■■■羅以為臣民」は、「而して倭は辛卯年を以って海を渡って来たり百残■■■羅を破って以って臣民と爲す」と読み下すのが通説です。

碑文は好太王の業績を讃え、後世に伝えるためのものなのだから、「渡海破」の主語は倭ではない、とする意見もあります。「而以倭辛卯年来」「渡海破百残■■■羅」と分け、「而して倭は辛卯年を以って来るも、(王は)海を渡って百残■■■羅を破って以って臣民と爲す」と解釈するのです。

――百済と新羅はもともと我が国の属民だった。倭が辛卯年やって来たので、王は改めて百済加羅新羅を臣民とした。

というのは、「而以倭辛卯年来」が宙に浮いてしまうような感じがします。倭がやって来たから倭を討ったのなら分かりますが、もともと属民だった百済新羅を重ねて臣民にする意味が分からなくなってしまいませんか?

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