(92)「辰王」はどこに行ったのか

092原の辻遺跡楽浪式土器

楽浪式土器(原の辻遺跡)

邪馬壹國の女王・卑彌呼と狗奴國の男王・卑彌弓呼は「卑」を姓とする鬼道の王族ーーと仮定して、3世紀の北東アジア情勢を眺めると、教科書日本史が触れていない古代史が見えてきます。

まず景初二年(238)、「卑衍」という武将が、魏帝国と公孫「燕」國との戦いで討ち死にしています。「卑」は華夏に順化した挹婁族に見られる姓だそうです。むろん、だからといって卑彌呼、卑彌弓呼がツングース系の人、というわけではありません。華夏の宮廷知識人が華夏に順化した周辺異族の族長に許した名乗りの1つ、ということです。

もう1つ、公孫淵の「燕」國が滅んだときのこととして、「諸韓國臣智加賜邑君印綬其次與邑長」(諸韓國の臣智に邑君の印綬を加賜し、其の次には邑長)とあって、帰順先を公孫「燕」國から魏帝国に変更した証として邑國の長に印綬を与えています。「臣智」は魏帝国の家臣の意味ですから、韓地の諸邑国は帯方郡の支配に入ったことになります。

「魏志韓伝」によると、韓地の邑国長に与えられた称号は「魏率善邑君歸義侯中郎將都尉伯長」でした。「魏率善」は異族の長に付けた共通の呼称というか形容詞(善く率いる)で、邑君、帰義候、中郎将、都尉、伯長が位(称号)に当たります。君は臣下の位では最上位の「公」に準じ「候」より上です。魏帝国は韓地に「王」を認めていません。

これを以って「韓地は倭地より軽んじられていた」とするのは早計です。というのは、この位階は正始七年(246)、帯方・楽浪連合軍が韓地を制圧したあとに改めて与えられたもの(陳寿にとっては帯方郡公文書の最終版)と想像されるからです。

実際、「魏志韓伝」辰韓条には秦帝国とのつながりを示唆したうえで、「其十二國屬辰王」の文字が見えています。秦の末裔なので、通音する「辰」と名付けたのでしょう。しかし「魏志韓伝」は「辰王常用馬韓人」(辰王は常に馬韓人を用う)、「辰王不得自立爲王」(辰王は自立して王と為ることを得ず)と記しています。統治すれど君臨せずの「馬韓人」とは、箕子韓王の王族という意味でしょう。

正始元年(240)に帯方郡の太守となった弓遵は邪馬壹国と友好的な関係を築きましたが、反対に韓族とは関係を悪化させてしまいます。正始六年(245)、遠征して東濊族を屈服させた勢いで、辰韓12国のうち8国を楽浪郡に分割したのです。郡の役人の説明が二転三転したため韓地の邑長が怒って、反乱を起こしたました。

翌年、帯方郡と楽浪郡の軍が連携して韓地の反乱を鎮めました。その戦いの中で弓遵が戦死したので、正始八年、玄菟郡太守だった王頎が帯方郡太守として赴任してくるという経緯です。王頎はこのとき、沃沮の古老から聞いた東海の島の住人と出会ったわけでした。

楽浪郡に分割されかかった辰韓12国は、すなわち「其十二國屬辰王」です。反乱を起こした中心に「辰王」がいたことは間違いありません。しかし反乱が鎮圧されたとき、王が処刑されたり洛陽に連行された形跡がありません。「辰王」はどこに行ったのでしょうか。

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