(87)邑國の形成に支石墓の技術

087支石墓

世界遺産 全羅北道・高敞(コチャン)の支石墓群

馬韓の人々も「倭人」だった、という論説はあまり聞いたことがありません。「倭人は古代北東アジア世界のヴァイキング」から出発したらたどり着いたわけですので、このまま続けようと思います。

弥生期の九州北半について、「まず全羅南道(馬韓)から支石墓を伴った集団、続いて慶尚道(辰韓)の人が組織的にやって来た」といわれています。水稲耕作は紀元前10世紀ごろ、九州北半で始まっていましたが、それは自分たちが食用とするためのものであって、大規模な水田を組織的に運営し、交易する邑國とは一線を画しています。

支石墓はどこかで切り出した巨大な石を何らかの手段で運んできて、立体的な埋葬施設を作る技術があったということです。それは巨石を船から木製の搬石具「修羅」に載せ替えて構築した古墳の石室に通じ、その技術は大規模な水田の開発と維持に欠かせません。

現在の日本人の視点で見ると、倭人の青潮グループの本拠地は博多平野、糸島半島ということになります。しかし馬韓(現在の全羅北道、全羅南道)の人々も「倭人」で、むしろ中核的な集団だったとすると、『漢書』地理志が伝える「樂浪海中有倭人」が博多平野の倭人かどうか、再検討が必要です。

馬韓邑國の佰済國から発展した百済王國について、『隋書』は「初以百家濟海」と記すのみで、どこから渡ってきたのか触れていません。時代的に古いのは『後漢書』の東夷伝で、そこには「初朝鮮王準為衛滿所破乃將其餘衆數千人走入海攻馬韓破之自立為韓王」(初め朝鮮王準、満衛の滅ぼす所と為る。将に其の餘衆数千人、走りて海に入り、馬韓を攻めて之を破り自立して韓王と為す)とあります。

朝鮮王準は箕子朝鮮國の第41代哀王のことで、始祖の箕子胥餘(しょよ)は殷王朝第28代の文丁王の子とされています。周によって箕(東北)に封じれたので「箕子」と呼ばれ、代々「朝鮮候」に任じられたと伝えられます。

紀元前10世紀ごろ、「箕」を名乗る氏族が山東半島にいて、海をはさむ遼東半島にも勢力を伸ばしました。遼寧地方に「箕候」銘の入った青銅器が発見されたりしてるそうです。考古学的な知見から、「伝説の王国」と斬り捨てることはできません。

「自立為韓王」がいつごろのことか、年次は定かではありません。燕國の重臣だった衛満が朝鮮國哀王に寄食したのは紀元前195年、朝鮮國内の華夏の人々を糾合して、哀王を追放したという経緯です。衛満が漢帝国から遼東太守の外臣に認められたのは紀元前191年でしたからそれ以後です。

ここで指摘しておきたいのは、箕氏を構成した集団が「支石墓」という特徴的な埋葬形式を持っていた、ということです。考古学の知見は、支石墓が紀元前500年ごろ遼寧地方に発生し、紀元前後のころ、馬韓の地に伝播したことを明らかにしています。

その主体は扶餘族でしたから、箕子伝承のうち、始祖は殷の文丁王の子とする部分は合致せず、しかし「餘」の一族である点で一致しています。箕氏伝承の史実性は別として、扶餘族の流れを汲むかなりの人数が、その主体は扶餘族でしたから、箕子伝承のうち、始祖は殷の文丁王の子とする部分は合致せず、しかし「餘」の一族である点で一致しています。箕氏伝承の史実性は別として、扶餘族の流れを汲むかなりの人数が、朝鮮半島の南端=弁韓(伽耶)、さらに博多平野に移動したと推測できます。

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