(163)廃刀令と断髪令のようなもの

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黥をした兵士(復元埴輪:八幡塚古墳)

 黥を顔(額や目の周り)に入れることを刑罰の一つに組み込んだのは、黥を蔑みの対象に貶めたことになります。それは倭人世界の支配階級から黥の習俗を取り上げ、華夏の風習に倣わせるのがねらいでした。文身を禁じなかったのは、被支配階級の習俗だったことに依っています。

 ヤマト王統の中核(王族、貴族、上級吏僚、宗教関係者)が黥・文身の世界から離れたのは、中華思想を具現する過程での出来事だったことを物語ります。政治が代々の習俗・習慣を意図的に改変するのは、決して難しいことではありません。明治初期の廃刀令と断髪令が「武士」を壊滅に追い込み、鹿鳴館が文明開化を象徴したのとよく似ています。

 倭王武が倭國をして極東の中華たらんと志し、宋の順帝(劉準、在位477~479)に奉じた表に「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」(東に毛人を征すること五十五國、西に衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐこと九十五國)と記しました。東、西、北はあるけれど、南がないのはなぜか、という疑問があります。

 実は答えはそれほど難しいものではなく、南は自分自身なのです。倭王武が「東、西、北を征服した」と語る事蹟は、おそらく祖禰=倭讃が朝鮮半島の慶尚南道から全羅南道に勢力を広げたころの記憶であって、それを引き継いだ倭王武が「我がこと」に置き換えて表現したのではないかと思われます。倭王武にとっての南の異族(例えば熊襲)は、まだまだ強力なバリアを維持していました。

 東晋・安帝の義熙九年(413)に高句麗とともに貢を献じた「倭國」が誰かはさておき(というのは高倭戦争で捕虜になった倭人の高官を高句麗が同道したのかもしれないので)、宋・武帝の永初二年(413)に朝貢した倭讃は、華夏で黥・文身の風習がすっかり廃れていることを知ったのでしょう。それは勇者の証ではなく、むしろ文化的に下等な夷蛮の族の自己証明だったのでした。

 倭讃が「脱黥」を決意したのは、王城を筑紫に南遷させて以後のことだったと推測します。実戦部隊の主体である武人集団の黥面と被支配階級の習俗である文身は別(放置)として、支配階級の黥目(利目)を禁じたばかりでなく、刑の1つに組み入れたのです。それが安曇連浜子に黥刑の執行した「安曇目」のエピソードとなっています。

 多少の抵抗はあったにせよ、倭王統の中枢人物群(王族、貴族、上級吏僚、宗教関係者)が黥・文身の習俗から脱したのは、倭讃から数えて3世代目、倭王興、倭王武のころだったでしょう。倭王武の治世になっても、王権中枢を構成する人の顔に黥を施す刑は政治的な意味を持っていました。

 また、『書紀』が記す第23代ヲケ大王(顕宗)の別名が「来目稚子」(稚子は「末っ子」の意)とされるのは、ヲケ大王とオケ大王(第24代仁賢)の兄弟が縮見屯倉首(シジミのミヤケのオビト)という牛馬の牧場主に育てられたエピソードに由来します。鳥飼い、牛飼いなどが、漁撈狩猟、林鉱鍛冶、交易、職工、芸能、武闘を生業とする民々とともに非農業生活者に分類され、黥・文身が許容されていたことを示す逸話です。

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