(162)黥より文身が下等に見えた

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古代エジプトのアイシャドウ

 『書紀』における「黥」の初出は、第17代イザホワケ(履中)元年夏四月条、阿曇野連浜子の目の周りに黥を施したので「阿曇目」(アヅミメ)と呼ぶようになったという逸話です。それは目黥が刑罰となった経緯で、もっと前、倭人のごく通常の習俗だったときは「クメ」(久米/来目)、「トメ」(利目/斗米)と呼ばれていたようです。

 目の周りに色を入れて強調する身体装飾(化粧)は、現在でもアイシャドウとして広く行われています。有名なのは古代エジプトのファラオですが、これは黥ではなく孔雀石や瑠璃石(ラピスラズリ)を粉にして塗ったものでした。クレオパトラがアイシャドウの元祖とされるのはこのためです。

 黥目を「クメ」と読んだのは「ク=大きい/強い/硬い+メ=目」であるとして、しかし「トメ」の由来が分かりません。「利」は呉音も漢音も「リ」なので、「ト」は倭音(訓)ということになります。そこで思いつくのは、「トク」(得、疾)という倭音(訓)です。「トシ」なら「聡い」「疾い」「鋭い」です。「トメ」は「聡い目」「鋭い目」の意味でしょうか。

 クメ、トメが黥目に通じることは、『古事記』の神武東征譚にある「爾大久米命 以天皇之命 詔其伊須氣余理比賣之時 見其大久米命黥利目而 思奇歌曰」から分かります。イハレヒコ大王の命を受けた大久米(オホクメ)という武人が、のちにイハレヒコの正妻となる大物主(大事主)の娘で伊勢の五十鈴川上流に住んでいた伊須氣余理比賣(イスケヨリヒメ)に大王の詔を伝えたとき、姫がオホクメの「黥利目(裂けるトメ)を見て奇異に思った、という下りです。

 黥を「裂く」と読んでいるのは、墨を入れるとき血が吹き出るさまを比喩しているのでしょう。またオホクメは『書紀』では「大来目」と表記され、九州・球磨地方を本貫とする海洋族と考えられています。イハレヒコ大王に早くから臣従した武人集団で、武闘を模した「久米舞」にその名を残しています。

 このことから、博多湾ないし玄界灘の安曇一族、有明海から球磨にかけての久米一族がヤマト王権における倭人の代表格で、ともに黥を習俗としていたことが分かります。一方、イスケヨリヒメがオホクメの黥目を見て大いに驚いた、とあることから、原ヤマト王統=三輪王朝の人々は黥・文身の習俗を持っていなかった、とする指摘があります。

 しかし畿内地方でも黥・文身を形どったと思われる埴輪が出土しています。『書紀』がイスケヨリヒメを「黥を見て驚いた姫」としているのは、ヤマト王統が華夏の風習を学んで黥・文身を忌避するようになった5世紀後半から6世紀初頭の状況を反映させたのに違いありません。

 もう一つ黥・文身についていうと、『書紀』オシロワケ大王(景行)廿七年春二月条に、東國視察から還った武内宿禰の言葉として、「東夷之中日高見國 其國人男女並椎結文身 爲人勇悍是總曰蝦夷」(東夷の中の日高見國あり。その國人の男と女は並びて椎結文身して勇悍な人と為す。是を総じて蝦夷と曰う)というエピソードが出てきます。ここに見えている「東夷」「日高見國」の考察は稿を改めるとして、『書紀』編者たちからすると、文身は黥より下等な習俗に見えたのです。

 このことは倭人の世界で黥は支配階級、文身は被支配階級の習俗だったこと、ヤマト王統の中核(王族、貴族、上級吏僚、宗教関係者)が黥・文身の世界から離れたのは、中華思想を具現する過程での出来事だったことを物語ります。

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