「友達」と「親友」の境界

『100人の友達より1人の親友』とよく言われるが、私も表面上の友達を沢山作るより、より仲のいい友達を数人作るべきだと考える人間の1人である。この考えが一般的に受け入れられるかは置いておくとして、ここでの「友達」と「親友」の言葉が、"どの程度の関係を指すのか"について考えてみる。
※私自身はこういったことの専門家でもなんでもないので、誤りがあるかもしれない。そもそも、この分析が論理的に破綻しているかもしれない。誰かのメモ書きだとして話半分で読んでもらいたい

何故こんなことを考えるのか

これは『100人の友達より1人の親友』という言説を否定したいわけではなく(むしろ賛同である)、これをどのように捉えるべきか、また人によって捉え方が変わるのではないか、という話である。というのも、そもそも私は典型的な「内向型」であり、根本的に多人数と人間関係を構築することは苦手で、自分が信頼できる少人数の人とより深い関係を築ければ満足してしまう。だから、この言説はもはや「当たり前」であり、外向型(内向型とは反対の性質を持つ人々)の人に向けたものでない限り、それは内向型にとってはもっと別の意味も含むはずだ。
私が思ったのは、「友達」と「親友」という言葉の意味が、少なくとも外向型と内向型によって異なってはこないだろうか、ということである。

「友達」と「親友」の定義

定義、というと堅苦しいが、要はこれらの言葉が何を指しているのか、この場合、どこまでの仲を指しているのか、ということが内向型にとっての捉え方を考える上で争点となる。
それぞれを辞書で調べてみる。
まずは「友達」

とも-だち【友達】互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。(デジタル大辞泉より)
ともだち 【友達】一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人。(大辞林 第三版より)

次に「親友」

しん-ゆう 【親友】互いに心を許し合っている友。特に親しい友。(デジタル大辞泉より)
しんゆう 【親友】互いに信頼し合っている友達。きわめて仲のよい友達。(大辞林 第三版より)

このようになっている。
やはりというか、明確な線引きがあるわけではなく、漠然と「親友の方が友達よりも仲の良い関係」ということしか分からない。だからこそ、そもそも深い関係を築くことの多い内向型にとっては「この言説での『友達』は私の中の『友達』?それとも『親友』?」となってしまうのだ。
ネット上で両者の違いを調べていくと、「相手のことを思って行動・発言ができる」「簡単に関係が崩れることはない、と自信が持てる」などということが述べられていた。つまりは、「どこか他人行儀なところがありはしないか」という点が1つの判断基準にはなりそうだ。

内向型にとっての「友達」「親友」

では内向型にとって、「友達」「親友」とは何だろうか?ここからはあくまで内向型の一個人としての主観的な意見となることをご容赦頂きたい。
まず、「内向型にとって」を考える時点で「外向型にとって」のものと比較した相対的な評価をするべきだと考える。そしてその上で、「外向型にとっての友達」を辞書の定義の通りに、「外向型にとっての親友」を先述した「他人行儀な接し方はしない友達」というように定義する。
そうすると、私が思うに、
「内向型にとっての友達」
…「外向型にとっての友達」"以上"、「外向型にとっての親友」"未満"
「内向型にとっての親友」
…「内向型にとっての友達」"以上"、「外向型にとっての親友」"未満"
となるのではないかと思っている(あくまで私個人としての感覚である)。この意見について、外向型の人からも同意が得られるかもしれないし、内向型の人から批判が来るかもしれないが、ひとまず何故このように考えたかについて述べるとする。

内向型は「友達」のハードルが高い?

まず「友達」については先に述べたように、内向型の一般的な傾向として、「限られた仲の良い友達を作る」というものがあるため、外向型にとっての友達よりもより深い関係とならないと、内向型にとって友達とは思えないのではないかという推測である。たとえ共に過ごすことが多い人であっても、もっと気の置けない立場にならないと「友達」とは思えない節が(少なくとも私には)ある。そういう意味で、外向型と比較して、「友達」になるハードルが高いと考えた。

逆に「親友」のハードルは低い?

逆に、「親友」に関しては、そのハードルは下がっていると考えられる。要は、「厳しい基準をクリアした友達」の時点で「半分親友みたいなもの」ということである。勿論、一般的に「友達」と「親友」の間に壁があるとされるのと同様に、内向型にとっても壁があるのは確かだろうが、その壁は外向型と比較して低いだろう。
何故かというと、内向型にとっては「仲が良い」と思う友達に「親友だよね?」と聞かれると、少なくとも「まぁそうかも」と思えるところが(少なくとも私には)あるからだ。内向型にとって、親友かどうかは「お互いがそう認識しているかどうか」というようなある意味形式的な基準に基づいて判断されている可能性はないだろうかと思う。極端に言うと、「言ったもん勝ち」だ。
裏を返すと、口には出していないけど客観的に親友の関係だったり(本人が意識していなくてもよい)、お互いそう思ってるけど明言してはいない(なかなかはっきり口にすることでもないが)だけであったりして、「本質的には親友だが認識されていないので親友ではない」ということが起こり、内向型にとっての(体感の)親友の数は目減りしているのではないかと思う。それが結果として内向型にとっての親友のハードルが上がっている(つまり外向型と同程度の基準)ように錯覚され、本人にとってはただ友達が少ないだけのように思えてしまうわけだ。

"何人"の友達より"何人"の親友?

以上のことを踏まえて再び始めの言説を捉え直す。
内向型にとっては友達の数は必要なく、また一般として親友はなるべく多い方が良い(何十人も親友がいると果たしてそれは親友と呼べるのかということははさて置き)。また内向型にとって友達は必要不可欠な存在(限られた数でもいいから絶対に必要な存在)であることを踏まえると、
10人の友達の中でほとんどが親友
という言説の方がより適切になるのではないだろうか。まず友達の数は少なくていいし、でも必要な存在なので、「よりも」ではなく「の中で」とする方が良いだろう。そして、親友のハードルは恐らく低い(私の意見)ので、なるべく親友になってしまう方がいいだろう。
(ちなみに"10人"なのは個人的な主観なので適宜読み替えていただきたい)

長々と失礼しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?