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”こわい”野沢菜漬け

 2年前の冬、母が他界した。葬儀などのバタバタが落ち着いた頃には、もう野沢菜を漬けるには遅い時期だった。

「母ちゃんもいなくて、野沢菜もないなんてヤダよ…」

弟が、ポツリと呟いた。

 私と弟は、共に40代。生まれてこのかた、野沢菜漬けのない冬を過ごしたことは一度もなかった。冬の間は、毎日必ず野沢菜が食卓にあり続ける。

 昔は、どの家でも毎年たくさんの野沢菜を漬けた。漬ける作業は、大抵の家で女の仕事だ。女性が働きに出るのが当たり前となった今日、信州と言えども、「切り漬け(浅漬け)」で2~3日分程度の量をたまに漬けることはあっても、ひと冬分もの野沢菜は漬けない家庭が増えている。

「そうだね。野沢菜のない冬なんて、さみしいね」

家族と離れて関西で暮らしていた私は、毎冬、帰省した際の、懐かしい郷里の味を楽しみにしていた。

「来年も漬けてよ?」

私がそう言うと、老いて、漬ける作業がしんどくなってきていた母が「そうだねぇ、来年も漬けられるかねぇ」と、静かにほほ笑みながら答えた。

これまで、母が野沢菜を漬ける作業を手伝ったことはほとんどなかった。亡くなる直前、病床で漬け方を聞いてメモをとった。野沢菜漬けは、家庭ごとに馴染みの味が少しずつ異なる。私と弟はこの時初めて、我が家の野沢菜漬けに、隠し味として僅かに味噌が入っていることを知った。

去年、悲しみで元気の出ない自分を励ましながら、メモとネット検索を頼りに、初めて15㎏の野沢菜を漬けた。分量通りに漬けたはずだったが、ガッツリと塩辛い野沢菜漬けが完成し、食べるのに苦心した。

 2年目の今年も、例年通り15㎏の野沢菜を漬けた。うっかりまた同じ塩加減で漬けてしまったのだが、すぐに塩辛すぎることに気づき、初期段階で必死に調整して、なんとか美味しい野沢菜漬けができた。

 ところが今度は、乗せていた重しが重すぎたようで、後半になって、残りの漬物がすっかり”こわく”なってしまった。信州の方言で、菜っ葉などが、柔らかくて食べやすいのではなく、硬くて噛み切りにくく食べづらいことを「こわい」と言う。

父は、年をとってから味覚が変化してしまったらしく、数年前からほとんど野沢菜を口にしなくなった。それでも毎日食事の際に、父のすぐ目の前に野沢菜を置いてみるのだが、めったに食べることはない。

ところが、昨日の夕食で、父が突然野沢菜を食べた。ひとくち食べて、もうひとくち。さらにひとくち。

「こわいなぁ…」

野沢菜は、毎年12月頃から春先まで毎日食べ続ける。もっと早い時期に食べてくれれば、ちゃんと柔らかかったのに。もう終わりに近いからねというと、

「美味くねぇなぁ。ちょっとばか(=少しだけ)残ってるだけかぁ?もう捨てちゃえ」

確かに”こわく”はなってしまっているが、春先のように、味が酸っぱく変化してしまっているわけではない。去年よりはマシに漬けられたと思っていたこともあり、突如思ってもみない変化球を食らって一瞬イラッとした。

家族の介護の難しさは、こういうところにある。何の前触れもなく「はぁ?!」というできごとが起きたり、言われたりして、感情が乱されるのだ。この場合、むしろなんでもかんでも「捨てなくてもいいじゃねぇか」と言うのが常の父が、「捨てちゃえ」と言うこと自体が、実は”意味不明”だった。

私は、ひと呼吸おいて気持ちを整えると、量的にも味的にも、まだ捨てるに値するほどではないと、父に語りかけた。こんなこわい野沢菜を、お前たちは食うのか?といった様子で、あまり納得したようではなかったが、それ以上父は何も言わなかった。

野沢菜が"こわい(硬い)"ことなんてどうでもいい。私はお父さんの認知症の方がよっぽど ”怖い(コワい)”です…(- -;;笑

三度目の正直。来年こそはもっと上手に漬けて、美味しい野沢菜を食卓にのせてあげよう。ある日突然、また父が食べてくれるのを待ちながら。

#エッセイ #信州   #長野県 #野沢菜 #母


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