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【つぶやき】詩について2 詩とは、僕は詩を書いているのか

その2です。
引き続き、見出し画像を「みんなのフォトギャラリー」から「短いシカ」さんよりお借りしてます。

で、前回僕は詩を書こうと思っていないって書いたんですが、じゃあ何を何で書いてんだって話ですけど、そもそも詩ってなんだろね。

よく「詩的だ」とかいろいろなとこで目にしますが、なるほどと思うものもあるけど、どこがだって説明してもらいたくなるものもある。

詩とは
「文芸の一つの形態。人間生活・自然観照から得た感動を、一種のリズムをもつ言語形式で表したもの。」
とググッた先のOxford Languagesにありましたがもちろんそんな簡単なものでもないでしょう。

定型な文字数や行数で語られるものもあれば、自由詩のような音数も行も韻すらも縛られず、約束事から解放されているものもあります。今は詩と言えばその自由詩を指すものが多いと思います。

また現代詩といわれるものの中には、改めて自ら形(それは音数だけではなく、文字における図形的な型)を決めて書かれるものもあれば、まるで人間生活・自然観照から逸脱し特異こそ求めるもののような詩もあります。

つまり定義はよくわかりません。

また小説と詩、エッセイはどう違うのでしょう。
小説は疑似的な世界や用意した筋を読者に追体験させるもので、その物語に重きを置いている。
詩は言葉自体に重きを置いていてその中で、主題を凝縮させているもので、物語性をもたない。
エッセイは作者のそのままの考えや感じたものを文にしたもの、とか。作者の心の中に重きを置いている。

よって詩は物語ではないので、言葉や文が飛躍しなければならない、的な考えもある。そう指摘されたこともある。
なので詩は人によっては意味として理解しづらいということになりやすい、しるかバカ(←指摘された時のやさぐれた僕)ともなりかねない。人はストーリーをどうしても追ってしまうからだ。

詩をかく人によっては、そもそも物語など語りたくないのだ。そこにある言葉に触れその書かれている主体や感性を感じて欲しいのだ。

で、そういう面だけで詩を語るならば僕は詩人にはなれない。それが詩の定義ならば僕が書くのは詩ではない。
なぜなら言葉に重きをおき考えて書いているというのはそうだが、その中の世界や物語も含めて何かを受け取ってもらえたらなと願うからだ。

それでは僕の書くのは小説か。超短編小説か。
そう考えると、それも違うんだろなと思わざるをえない。僕は物語として書いている気もしない。正直最低限のディテールだけあって、あとは浮かんだ言葉やリズム、そこに意味を考えている。リズムや語感を無視しては僕は創作できないようだ。

僕はその物語だけを受け取らせたくて、追体験させたくて書くわけではないのだ。正直追体験なんてよしとくれ。
その背景にある感情だったり言葉に出来ずにただあるものであったり、匂いをやはり感じさせたいのだ。
あっさり言っちゃえば気分を感じて欲しいのだよ。

まぁどーでもいいのである。詩だろうがなんだろうが。
なんせ詩を書いているというふうに思って書いてないのだから。
じゃあなぜ詩のサイトにあげたりするのかといえば
他になんて呼ぶのさと
トンビがくるりと輪をかきやがる
小説じゃないだろ、詩のほうがしっくりくる。

結局は主観の話なのだから僕が詩だといえば詩なのだろうし、詩を書いていないといえばそうなのだろうな。
とにかくどっちでもいいんだけどね。

文芸だ。ああそれがいい。なぁそれでかんべんしてほしい。

まぁ散文詩なんていう言葉もある。散文で詩だ。
何が詩なのかは結局僕にはわからない。
ただ書くものの好みや、書きたい主体がどこにあるのかということのみだ。

僕は実際いろいろなものを書く。書きなぐっているようなもんもある。
でもそれを全部出すことはしない。すべて人に見せるようなもんでもないから。そこに詩はあるかもしれない。ただの呪文やうわごとかも知れんけどね。
ただ外に発するからには、少なくとも読んでくれる人のどこか(それがどこかはわからない)に触れるようなものを書きたいし、選びたい。
そしてその反応を感じたい。反応によっては僕の見えてなかったものもあってそれが刺激的だ。

伝えたいものを伝えようとする(伝わるかはわからない)、そのためにどう描くか、そして大事なのは自分で意味があると思っているのか。
そういうことを考えてるんですよ。意味の話はまた別にどっかで書きたいけど、意味はこれですと気づきそして示すことでなく、意味があると自分は考えるのかという自問自答は大事だと思っているんだ。

次はじゃぁ僕はどう詩を思うのか、どうかかわりたいのかについて書いてみたい。


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