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【つぶやき】詩について4 詩とコミュニケーション ぽえ会の思いで

その4です。
引き続き、見出し画像を「みんなのフォトギャラリー」から「短いシカ」さんよりお借りしてます。ありがとうございます。

さて今までのも含めて、これから書くものも詩の中のほんのほんの一面です。何事もひとつの切り口では語れないということもわかって読んでね。

1,2,3でしつこく詩のディスコミニュケーションについて触れた。
詩は言葉や文字そのものに意味をもたせるのものの故、思ったようには伝わらない。違う伝わりかたをする。
それが詩の詩たるところで、良さなのだけれども、やはり閉鎖的ではある。

読み手にゆだねる、それは他より突出した美しき点なのだけど、実際は読み手にゆだねず書き手が自己主張したがる場合が多い。
結局かなり一方方向ぎみになり、そのあたりが「ポエム」と口にされるときの何か軽視されぎみの、わかったフリされがちの、あきらめ顔の対象になりやすい。
まぁギミだガチだナリだ書いたけど、結局は好きにすればいいのだが。人生好きにやるしかないのだし、世の中は好きか嫌いかの世界なのだから。

前回までもさんざん書いて、いいねポチも貰っといてなんなんだということを今から書いてしまうが、そういうふうになってしまうというか出来てしまう環境や文学形式なのだからしょうがないと言えばしょうがない。ネット詩は。それでいいとさえ思う自分もいる。
やりたいことしかできないのが人間のサガだから、私を見て見てはどうしようもない。合法であるかぎり。

ただ人に読ます、つまり人の時間を使うということは意識してもいい、とだけ言っておきたい。
自分のメモ帳に書いてあるだけならコミュニケーションなどないが、表に出す=誰かに触れるわけだから、そこにコミュニケーションを考えてもいいと思うのです。

といことで今回はコミュニケーションの話です。

私は作品だけが私なのだから作品だけをうんぬん、他のコミュニケーションなど取りたくないのです。それもいいね。
でもならばただ森の中の木であるべきです。
この木はすばらしい、樹齢は1000年超えているだろう。まるでこの森のご神木だ。と、あなたの詩はなればいいし、それでもその木はなにも語らずそこにあるだけなのです。
いつもその木を見た人の中の問題になって、つまり読んだ人のものとなり、正しい書き手と読み手の関係かと思います。
文学のあるべき姿とも言えます。

ただその木が、自己主張をしたいとか認知を求めるならばコミュニケーションはあっていいと思う。ぬるいとかなんとか言われようと。

多くの古典や、有名な詩人はその背景も愛されています。その詩にまつわる教養など付加されるものによって理解は進み、より重く、残っていく。
しかし現代の、主にネット社会にみられる詩は背景もなにも見えず、どんな言葉もただ消費されるだけです。書き手が誰かなんかわかりようがない。
まさに文字です。ただただ文字です。
それはそれで僕はすばらしい新しい価値だと思っているのですが、勝手に消費されるだけでは気が済まないって気持ちもわかります。

また長くなるので、この辺で適当に話を変えます。

昔、日本詩人の会というサイトがありました。通称ぽえ会です。
「詩について1」でちらっと出てきました。
実は今年同じ名前で復活をしたのですが、今回はその昔の初代ぽえ会の話です。

ぽえ会が隆盛だったのは今より20年までいかない、15,16,17,18年くらい前のころだったと思います。というのも、今その旧サイトはどこにもないし、僕も何も記録していないのですっかりあやふやなのです。終わりも覚えてないし。

他にも詩の掲示板的サイトや批評サイトはいっぱいありましたし、今もいっぱいあるでしょう。
でもそのぽえ会が少し違った(ように感じて覚えている)のは、コミュニケーションを重視していたという点です。

ルールがいくつかあり、自分の詩をアップする前に他者の詩にコメントを必ず一つ入れるというものがありました。
言葉を考え詩を書く人たちです。コメントを入れるとなれば、それなりにあまり適当な言葉は書けません。すると他者の詩を自然しっかり読もうとするでしょう。そうすればもちろん好き嫌いも出るし、感銘もあるし、作者や作風を覚えることにもなるでしょう。

もう一つのルールに連続投稿の禁止がありました。俺が私が、と詩を見せたいだけのエネルギーを抑え、読み手に回るよう促すルールだったと思います。
詩は多分昔から、自分が自分が、自分の詩が感情がパッションがーという書き手主義のものなのでしょう。でも現代の情報があふれる時代じゃそれじゃそうそう相手にされない。

またぽえ会は詩を掲載するだけじゃなくて、雑談の掲示板やチャット機能も充実していた。夜な夜ないろいろな雑談をした覚えがあります。
詩人の姿をその詩以外からも感ぜられ、けっこうオフ会も多かった。そういやそこから映像を撮影するとか、バンドも組んだのだった。
とにかくコミュニケーションがあり、その広がりがとてもあった。

それによって詩自体の批評が薄まるとの指摘もあったと思います。お友達グループじゃんと。ぬるい、と。
確かに他にあった厳しめのところに比べればそうかもしれません。しかし、かなり多種多様な人たちと様々な作品傾向があり、大いに刺激はあったし、よいものを書きたいという気持ちも増したと思います。
それによく読んだ。好きな詩も好きな詩人もいた。

それを続けていれば、これは見せられないな、という自分の中のハードルもあがりますし、自分の書くべきことも固まるでしょう。それは少し気恥ずかしい言葉かもしれませんが切磋琢磨という面もあったと思います。

なにより誰かに読まれ、なにかを感じてもらえるという喜びは書き手が書く大きな理由になります。もちろんそれだけで書くのではないですが。
そしてコメントを書くということは、確かに人の詩を読み、取り入れ、自分の何かを発動するというなかなか得難い機会だった。

今は詩の朗読会、ボクシング、などなどコミュニケートできるイベントは数多くあります。僕は今の(良くも悪くもですが)主流となっている、ネット詩とくくられそうな詩の世界は、SNSの時代なのだからコミュニケーションがとれてなんぼだと思っています。時代の必然。
じゃなきゃ双方向のメディアに参加する意味は弱い。
いやコミュニケーションが普段からニガテなんだよ、という人だって詩をかくなら、人の詩を読んで感じたことを自分なりの詩にすればいい。

それをも嫌い、ただ自分の詩だけをというなら、それはやはり「私を見て見てすごいすごい見て見てはぁはぁ」の世界なのでしょう。
ディスコミュニケーションの世界は、もう僕にはどうでもいい世界だ。多様化の今だけどね。

SNSが最盛期になり、つぶやきも溢れ、たしかに旧ぽえ会の意義は終えたのかもしれない。
しかし詩を思う人たちが集まった昔の日本詩人の会、ぽえ会。大きな窓口であったし先見あるすばらしい試みだったと思います。そこで知り合った人たちとの出会いも含めて、あの時代に参加できてよかった。



だんだん鯱張って書くのもきびしくなってきたので、次の詩について5 詩の未来、AIなどに思うこと を書いていったん終わりにします。え、まだ書くのかよ。

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