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【つぶやき】詩について3 詩に思うこと

その3です。
引き続き、見出し画像を「みんなのフォトギャラリー」から「短いシカ」さんよりお借りしてます。ありがとうございます。

詩に思うこと。
もともと詩は定型のものだった。これは古代からの詩の話。
東西を見て、詩はそういうものだった。
それは詩の本来の役割からして必要だった。詩は伝承のために発明された。人々の口に介し、伝え続けられるため。
それは儀式の呪文や経文であったり、後世に残そうとした英雄譚であったり、教えだったり、コミュニケーションとしての掛け合いであったり。それは暗唱されるものとして文字数や韻によるリズムを必要とした。
覚えるべきものだったのだ。
だからルールがありそれに従うものが詩だった。

それがその制約がなくなっていった。これは印刷技術の発明が大きなきっかけだと思うのだけど、暗記しないでも残すことが容易になっていった。
すると詩は覚えておくべき教養とか必然とかから離れることになる。

自由詩が生まれた。
文字や音数、韻の制約から解き放たれそれは自由になった。

しかし僕は自由というものを掲げるものにいつも、自由ってすべて素晴らしいもの?という少し斜な目を持ってしまう。

自由詩によって詩は制約がなくなったがそれはもう別に暗記しなくてもいいもの、触れなくてもいいものにもなってしまったとも言える。
書かれた詩、人の詩など、知らん。そういうものが詩の一つの要素にになったのじゃないか。もっと言えば自分の思うもの、自分の詩だけが大切と。

それは他の文芸である小説などと比べるととてもディスコミニュケーション。なぜなら詩は物語的な意味を持たず、言葉だけにクローズアップされているため伝わりづらいものだから。

で、これは僕思うにだけど、それはそれで悪くない。
書き手は書き手の自分のことだけを考え、読み手は勝手に読み手の自分に投影して感じる。自由自在に。
与えるものは書き手の意図など知ったこっちゃない世界だ。

しかし実際詩のまわりを見てみるとそうでもない。書き手は結局こう読んで欲しいってのがある。知ったこっちゃないじゃ困ります。読み手がこうだねといっても、いえそうじゃないんですこうなんですとなる。
そこがよくわからない。書き手がぜひ伝えたい、なんで伝わらないと思うなら伝わるように書けばいい。説明をしたいなら、そう書けばいい。
詩を書いておいて、そのように書いておいてそうじゃないんですは読み手をあまりに軽視している。

ただただ見たことのある話、見たことのある言葉を自分語りされる詩もある。
いやその「ただただ見たことある風景」をどうしても見せたくてっていうならわかる。
でもただ自分が感じたことですって書かれても、それはもうあちこちの日記に書かれていることなので、いやあちこちの日記が見れるようになったこのネット時代がちょっと困りものなのだけど、それは読み手にどうしてもらいたいのか理解に苦しむ。慰めてほしいのか、解決策がほしいのか、がんばろうといってほしいのか。
まぁ欲しがってしまった時点で詩としては失敗なんじゃないかと思ってしまうけどね。どっちかっていうと詩の場所じゃなくてどこかの相談場所に行ったほうが本人のためじゃないだろか。やっぱり読み手を軽視している。

その他にはやたら難しくなってしまい、その難解なところ、奇抜なところが賛美されるべきというマニアックな詩の方向もある。もちろん否定しない。否定しないどころか、すごいと鳥肌もので感動するものもある。
しかしそれはやはりマニアックでコミュニケーションからは離れていく。まぁそれはそれでよい世界なのだけど、パイは少なく、日の目は見ない(日の目をみることを良しとしないというのもあるかもしれないけど)

読み手をあまり考えず、場合によっちゃ軽視して詩が存在する。それが他の文芸や古来の詩と大きく違うスタンスなのじゃないかと思う。

まぁそれもしょうがない。必然なんだろう。
今はまさに自分こそは価値と主張する時代になっちゃったんじゃなかろうか。生物の前提にあった種の保存、種としての繁栄というのから人間は逸脱しはじめた。

もちろんこれは極端(でもない気もするけど。。)に詩というものを言ってるだけですよ。へんに気に障ることがありませんように。

で、僕はどうなのよと言えば、伝えたいことはある。書きたいことがある。
でもそれが読まれて別な解釈をされても、ああなるほどとなるだけだ。
やってみたら面白いかなってこともやる。でも自分は面白がるが、そして他にも感じてもらいたいと工夫はするが、他が面白がるか感じてくれるかどうかはわからない。それは僕の実力不足かもしれないし、みなの好き嫌いかもしれないし、見てるものが僕と君で違うのかもしれないし、ほんとしょうがない。でもそれがわかっただけで、幸せなことだ。表にだした甲斐はそれだ。

何を誰かに残せるかな、そういう気持ちだけで、僕を助けてほしいとか僕を救い上げてほしいとかというのは当然これっぽっちもない。
ただ感じて何か浮かんでくれればうれしいし、ほんとそれだけで書いていて、もしくは僕の感じていないかったことを教えてもらえれば最高です。
まあ、なるほどと感じるくらいが成長に、もっと言っちゃえば人類が生物でいられるために、いいんじゃないかなと思うのです。

また長くなったけど、もう一つだけ。
詩はディスコミニュケーションな文芸だと書いた。
ひとつ違うということも言っておく。
今、ポエトリーリーディングや詩のSNS的サイトなどでの交流が盛んだ。それは昔の権威的な文壇や会派とは違いもっとフランクだ。つまりコミュニケートはある。それが今の詩がもつあり方の一つなのだと思う。ディスコミニュケートなものなど人類のためになってる気がしないから。
ただやっぱりそれも私の日記を見て見て的な、もっと言えば私の傷を見て見て痛そうでしょ的なコミュニケーションの場になって結局は他者のものなど見やしないっていうふうなものも避けられないか。それで会話が弾むとすればちょっと怖い気もするが。

次は昔あった日本詩人の会(ぽえ会)の思いでなど、そのコミュニケーションのこと、詩と人類のことを書きたい。最後のはなんだ?

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