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【つぶやき】詩について1 僕が詩を書くようになったのは

まず、見出し画像を思い立って「みんなのフォトギャラリー」からお借りしてみた。どんなふうかと。使わせてくれる方、ありがとうございます。
しばらくこれでやらせてください。

さて本題。
僕は詩を書こうと意識して取り組んだことはない。
ちょっと語弊はあるかもしれないが今でも。

詩らしきものを書きだしたのは、かなり前、学生の時か。
学生(最初は高校)のときにバンドでやる歌詞を書きはじめた。当時のはやりもあって英語日本語ごったまぜのかなりてきとうなやつだった。メロディに合わせて肝心な言葉をぶった切ったりしてね。
書いたものを誘われてアンソロジーとして出した時、それはバンドでやるために書いてた歌詞だった。書いてたのは曲があるやつだった。

バンド以外で書くようになったのはアンソロジーで書面になったのを見て、ああ文字と楽曲って違うものがあるなって意識するようになって。

そしてその後何かに投稿するようになって(それはとうの昔にあやしいことになったらしく無くなった)、それはほんと気まぐれだったのだけど(何か感じる人の詩があったのかもしれない)
しばらくしたらやはりそこでアンソロジー的な詩集を出すとのことで、もうあまりそういうのは興味なくなった頃でそう言ったのだけど、お金はとらないから(このへんがあやしい)と載せてくれた。
まだハタチになったかそのくらい。忘れもしない3ページ。
それがのちに1500円で売られてたというのを聞いて、そのお金の配分はないのかよとも思ったが、ちっとも売れなかったのだろう。

何かを書くのは日常的にしていた。その頃はノートだった。大学ノート。いまもメモ帳にペンというのがしっくりはくる。もともとメモ魔だ。
だけど詩を書くぞ、と力を込めたり、誰かに読んでさらに評価してもらおう、なんてそういう熱はいっこうに湧かなかった。詩に対する向上心はなかった。文学に対するかな、なかったのは。
もともと自己アピールを積極的にしたい派ではなかった。他が忙しい、て感じでいつも。
でも言いたいことはいつもあったのかもしれない。

で、詩をネットに出すようになったのは「日本詩人の会」通称ぽえ会というのに知人が投稿してるのを知ったからだ。
ぽえ会は詩の掲示板のようなもので、今ほどSNSが全盛になる前、まさにSNS前夜くらいの時のコミュニティだった。今から20年くらい前の話で、ネットの世界も今よりカオス度が少ないまだすこし純情さものこったような時代だった。
そこにで見た知人の詩はあまりに内向的で自虐的でいらっとさせるものだったので、ついそれにかぶせるように自分の正体を伏せて詩を書いたのだ。一発屋のはずだった。

するとその詩にいくつものコメントがついた。当時のぽえ会は自分が投稿する際に誰かの詩になにかしらコメントをひとつはいれる、というようなルールがあって(たしか)、それにもとづいてコメントされたのだろうけど、あれよあれよとコメントがついて面食らったことを覚えている。
その詩はキツめなエールというか皮肉のようなものだったのだけど、なんかその知人じゃない人たちから「元気をもらいました」とか「言い回しがかっこいいです」とかもらっちゃって、言葉って何かを伝えるのにやっぱりなんかいいなぁって思ったんだよね。

その知人はいつのまにかそこからいなくなっちゃったけど、いろいろ頭んなかの中でくっきりとまではしていない事や、ただ説明じゃつたわらないような漠然とした情景を、文字に残すっていうのはありだなって僕はそこに居座ることになったんだ。
そのぽえ会、日本詩人の会のことはまた別に書くかと思う。

ノートに書いてたのは日記のようなもの。
ただそのぽえ会とかいやしくも人の目に触れるような外にだすときは、もっと誰かを意識して普遍的に人の営みの中にあるようなこと、人間の普遍的な悲しみとか、自分の感情のなかでもそういうものを切り取りとって、それを言葉の表面ではないところに落としたいとは思っていました。
また自分でもどうしようもない感情を昇華させるのに、詩を書くことで深く見つめなおし考えるのは、その時の僕には特によかったかもしれない。

とはいって僕は詩を書こうと思って書くことはほぼない。
最初に書いた通り、詩を書こうと意識して取り組んだことはない。
なにか浮かんで、それは感情の高ぶりとかで、その思いついたことを考えていくとこういうことかとなって、それを言語に再構成してみる。なにか生まれる、みたいなふうに書くことになる。
だからなにかに反応しないと、何も浮かばず、書くきっかけすら生まれないの。
きっかけすら生まれないのも、それはそれでいいのだけどね。

じゃぁ今僕が書いているのは詩なのか、という話を次に書きたい。

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