第三部 二.「大いに笑う」

私はこの世界の不完全さを諦めて、完全な"それ"に向かおうとしました。
しかし、"それ"は自己の内にあると多くの聖典で教えています。
もうこの世界には、未練はありませんでした。自分の命を投げ出してでも、なんとかそれに向かいたいと願いました。
この世界から離脱したいという衝動に、後ろから追い立てられるような感覚もありました。

それから、ひたすら一心に"それ"を探求をしました。
食事をしても、食べ物の味も分からないほどでした。もう周囲への情動もほとんどないほど夢中になって、探求しました。

すると、瞑想をしていて、頭の中が光輝くようになったのです。
思考がその速度を上げ、抽象度を上げていくと、思考のプロセスは無くなっていきます。思考の速度を阻害するのは、身体感覚と感情、もしくは怒りと欲です。それには対象があり、距離(過程)があります。それが透明になる(完全に静まる)と、思考が光として認識されました。
それから、概念を頭に浮かべます。その概念は光に照らされて、振動し、崩壊します。それぞれの概念には、固有の振動数があります。ある概念はすぐに消え、別の概念は光の中でより速度を上げて振動していきます。概念が消滅するとき、複数の概念に分割されることもありますし、いくつかの概念が統合されて一つになることもあります。
そのように、概念自体と概念と概念の間にある関係性を見ていました。

今から思えば、あれは変化していく曼荼羅のようでした。概念が収まるべく所に収まっていくようでした。
特に意図していなくても、そこには仏教的な概念が浮かびました。ずっと見ていたのは、「十二縁起」でした。そして、常に「涅槃」という概念が中心にありました。
この縁起(世界)と涅槃(真実)が分離しているように感じていたことが問題だったのです。

「涅槃」という概念が、いくつかの概念に分割され、消えたり、生じたりしながら、あるとき再び「涅槃」として統合されます。このとき前の涅槃と、後の涅槃は同じ概念(形)であっても、内実は全く異なるものになりました。
座っているときは何時間でも、歩いていても、なにをしていても寝ないでいる間は、さまざまなレベルでひたすら続けていました。
それだけの熱意と覚悟があったのです。
後から、調べてみると、これは仏教の瞑想(四念処)の「法随念」の典型的な方法でした。

おそらく一週間ほど経ったあるとき、椅子に座って、相変わらず、涅槃に意識を向けて、浮かび上がってくるものを見ていました。
そのとき、今までいくら消滅しても、繰り返し生じ続けていた概念(思考)がピタリと止んだのです。

そのとき、私は、ここにいる"私自身"にはっきり気づいたのです。
それはすべてに満ちていて、なににも染まらずに透明で、目に見ることのできない光(源)のようでした。

とうとう"それ"を自分の内に、目の前に見つけたのです。
思考や感覚など浮かび上がるものに気を取られていて、それそのものを見ることができなかったのです。
そして、それはあまりにも当たり前すぎて、ずっと見ていたのに認識していなかったのです。

あれほど探求していたものは、すぐそこに、いつもあったことに気づきました。
そして、私は大きな声を出して、盛大に笑いました。
笑いを抑えることもできず、抑えようともせず、なにもかも忘れて、ただ無心で笑いました。

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