スピリチュアルな「目覚め」と仏教の智慧のプロセス

初期の仏教の教えを継承しているとされる上座部仏教(テーラワーダ)では、悟りに至る智慧を段階的に示している。
「清浄道論」という注釈書では、その悟りの智慧(洞察智)13段階ある。

この智慧のプロセスは、スピリチュアルの「目覚め」ととても似ているように思う。
そして、この目覚めから、その後の悟りへのプロセスも示されているため、ここでそれらを解説をしてみたいと思う。

まず第一の智慧「名色分離智」
これは、名(精神性)と色(物質性)を分別する智慧である。
つまり、知る対象とそれを知る心(主体)を分けて知ること

2つの捉え方をしてみる。

それまで人は「概念」のみで世界を知る。りんごを概念の「りんご」として、自分を概念の「自分」として、世界を概念の「世界」として知る。そこには、概念しかない。
この概念は心によって生じている(精神性)。

そこで、精神性と物質性を見分けることができるようになると、概念以外のものを知ることができる。
ここで、世界を概念としてではなく、物質性の世界そのものとして体験するようになる。
もっと言えば、「考える(概念)」しかなかったのが、「感じる(身体性)」ようになる

2つ目の解釈。
例えば、見ることを取り上げる。見るとき、「眼」が「色」を見る。そして、この段階での認識は「私=身体」となっている。つまり、「眼(身体)」が私なのだ。
つまり「私が色を見る」、このときの「私(身体)」も「色」も物質である。物質しかない。
関係性としては、主体(眼)→客体(色)となる。

そこで、物質性と精神性を見分けることができるようになると、見ている私は身体ではなく、「心」であることに気づく。
関係性として、眼識(心)→眼+色(物質)となる。

以下に、まとめてみる。

1つ目は、概念を超え、身体性を経験するようになること。そして、世界をリアルな世界そのものとして体験する。
言葉を乗り越えることが道の始まり

2つ目は、「心」の発見。身体的な私から、精神的な私へのシフトする。
身体は観察する
この2番目の解釈は、そのまま次の智慧にも関わっている。

次に第二の智慧「縁摂受智」と呼ばれる。
これは、原因を把握する智慧。

ここでも2つの捉え方を取り上げる。

まず、1つ目は、「あること」と「見ること」の関係について考えてみたい。

それまでは、「世界があって、私はそれを見る」と考えている。
しかし、この智慧では、「私が見るから、世界がある」へとシフトする。

もし世界があって、それを私が見るならば、世界には「見ていないものがある」はずだ。私が知らない(見えない)ものがあることを意味する。

しかし、私が見るから、世界があるならば、「見ていないものは存在しない」。つまり、私が見えないものはない。そのため、根本的な疑いが克服される。

スピリチュアル的に言うならば、「私が世界を創造(想像)している」ということになる。なぜなら、私が見ることによって、世界が生じるから。

もう1つの捉え方は、物質性と精神性の関係についてだ。

それまでは、身体(物質性)に私(精神性)が宿っていると考えていた。つまり、「身体>私」。

しかし、この智慧では精神に物質が宿っていると知る。「私>身体」。

つまり、「世界の中に私(身体)がいる」のではなく、「私(精神)の中に世界がある」という認識へのシフトが起こる。
これは外向き(世界、他者)から、内向き(自己)への意識のシフトでもある。
「自分軸」とも言える。

そして、このシフトにより、内なる真実に「目覚め」る。
仏教においても、涅槃(真実)は内にあると説かれている。

仏教では、このとき真理への「疑いを克服」する。これを「小さな預流(悟り)」と呼ぶ。

さらに、この「目覚め」から「悟り」までを見ていく。

第三の智慧「思惟智」
これは、仏教では無常・苦・無我の三つの実相を知る智慧と言われる。

スピリチュアルでも言われているように、「この世界は幻想である」、「この現実は夢のようなものだ」と見抜くこととなる。

次の第四の智慧「生滅智」
これは、現象の生起と消滅を見る智慧である。

ここで智慧は非常に強くなる。
この段階は、「道非道智見清浄」にも対応している。
この意味は、「道=真実」と「非道=幻想」を見分けることができるということだ。

一つ前の第三の智慧で世界の幻想を見抜き、第四の智慧で真実と幻想を見分けることで、真実をよりはっきりと知ることができる。

ここは一つのクライマックスとなる。
仏教では、ここでヴィパッサナー汚染が生じると言われる。
その汚染とは「光明」である。
その他、強い智慧、喜び、安らぎなども生じる。
無常を見る感じ

これは人によって「神秘体験」のように感じるかもしれない。
そして、その体験に囚われてしまう危険がある
そのため、これをヴィパッサナー汚染としているのだ。

ここまでの第一から第四までの智慧をまとめる。

1. 概念を超え、あるがまま(身体性)を発見する。
2. 私が世界を創造(想像)していることを知り、内なる真実に目覚める。
3. 世界の幻想性を見抜く。
4. 真実と幻想をよりはっきりと知り、「光明」が生じ、「神秘体験」をする場合もある。


次の第五の智慧「壊滅智」
これは、真実をはっきりと知ることで、幻想が崩壊していくのを見る智慧である。

そして、次の三つの智慧は同じものであるとされる。
第六は「怖畏智」、第七は「不利益智」、第八は「厭離智」。
つまり、幻想で崩壊していく現象を、恐れ、それが利益にならないことを知り、嫌になり、離れようとする。

スピリチュアルでは、この世界から離れて高次の世界へ帰りたいという思いを持つ人がいるようだが、仏教の伝統的にも、修行者はそのときの環境や状況から逃げ出そうとすると言われている。
出家ということもありえるのだろう。

さらにいくつかの智慧が瞬間的に連続して生じ、最後に「道心」と「果心」を観察する智慧が生じる。
これは、「一瞥」と、一瞥をしたことを知る智慧である。

これで、「目覚め」から第一の「悟り」までとなる。
そして、仏教の悟りは四サイクルある。
四念処の構造
しかし、次のサイクルでは第一の智慧に戻るのではなく、第四の「生滅智」から再び始まる

つまり、一瞥によって、さらに真実をはっきりと知り、「光明」や「神秘体験」をするのだ。
そのようにして、また智慧を進めて、悟りが深まっていく。

【参考】
自由への旅(ウ・ジョーティカ師)」無料PDF有り

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