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品行方正和顔愛語な障害者のコスプレはあなたの心を壊します。


「障害者は愛される存在であれ」
「配慮されたいなら品行方正にしてろ」

安全地帯から好き勝手言うマジョリティに、障害者手帳2級を持つ私は辟易しています。

いいかげんにしてくれ。黙ってくれ。



事の発端は、2024年3月16日、映画館を訪れた車椅子ユーザーが館内スタッフに介助を依頼したことでした。
映画館側は、当該車椅子ユーザーが求めるレベルの介助を素人が安全に行うことは難しいと判断して、対応できない旨を伝えました。
当該車椅子ユーザーはその出来事をSNSにて公開。
大きな騒ぎとなり、映画館側が謝罪文を出すに至りました。

私は情報過多だと疲れてしまうので、報道記事の概要しか読んでません。
詳しく知りたい方は「イオンシネマ 車椅子」で検索して各社の報道記事を読んでみて下さい。



イオンシネマ車椅子事件の真相よりも、私が憤慨したのは
この出来事がSNSで広まるにつれて

「配慮に感謝しろ」「障害者はわきまえて生きろ」「社会から愛されるように振る舞え」といった暴論が発信されるようになったことです。

Twitterを開けば嫌でも視界に入ってきて、わたしの楽しいTwitter時間を汚しやがる。




人権って健常者様からの施しですか?
それも、健常者様のお気に召す障害者だけがもらえるご褒美か何かですか?


ノーマライゼーションやらダイバーシティやらご立派な目標を掲げている社会と、現実の人権意識の乖離に気が遠くなりそうでした。

特に「愛される障害者であれ」ってなんやねんwwwwwwwwwwwwww
わたしたち障害者は愛玩動物かいなwwwwwwwwwwwwww街中で困ったときには「ワンワン」「ニャーニャー」鳴いたら手助けしてくれるんかいなwwwwwww



心をやさぐる情報に触れること、それについて反論を発信することは、疲れる行為です。

けれど、品行方正和顔愛語な障害者のコスプレを何年もしているうちに心が壊れてしまった経験を持つ障害当事者として、この事態を静観していることは居心地が悪かった。

未来ある10代20代の障害者に、「愛される障害者であれ」なんてクソバイスを真に受けてほしくない。
私みたいに健常者に媚びるのに疲れて心を壊すような経験をしてほしくない。

発達障害を持って生まれ、数々の二次障害を発症しながらも中年期まで生き延びることのできた大人として、何か言わなくては、と責務に駆り立てられnoteを開きました。

無名の人間の戯言だけど、インターネットの海に投下するこのnoteが、何かを必要としている人にどうか届いてほしい。






① 愛されるキャラクターで生き延びた学生時代


少しばかり身の上話をさせていただきます。
興味ない人は飛ばして目次の③に進んでいただいても構いません。

1993年、田舎県田舎市にてわたし爆誕。
田舎県田舎市にて育つ。

発達障害を持って生まれた私は、同級生の助けなしに学校生活を送ることはできませんでした。

たとえば、私は発達障害に合併する聴覚症状のため、10秒以上の説明が理解できません。
授業中、先生からの「○ページを開いてください」「問○を解いてください」といった簡単な指示すら聞き逃すこともしょっちゅうでした。
なので隣の席になった同級生に「このページを開くんだよ」「今はこれを解くんだよ」とよく指さしで教えてもらっていました。

「自分は人に助けてもらわないと生きていけない」と自覚していた私は、「助けたくなるキャラクター」として振舞う方針を立てました。
幼いながらに頭を使って考えた必死の生存戦略です。

イライラすることがあっても顔に出さない。
キツい言葉遣いをしない。
敵を作らないように悪口は極力言わない。
頭でっかちだと思われるような振舞いはしない。

そうした心掛けが奏功したのか、周囲から可愛がられることは多かったように思います。
実際に「多動ちゃんは人の話を聞くの苦手だし、すぐに会話を止めるけど、なんか許せてしまう。多動ちゃんなら仕方ないか~~ってなる」と同級生に言われたこともありました。

しかし、そうした周囲に媚びる振舞いは、少しずつ私のパーソナリティを歪ませていきました。

大人になり、好感度に左右されることのなく公平に受けられる公的な福祉制度の枠組みにはまり、好感度に関係なく公平に障害者を支援する専門職の支援を受けられるようになった今も、私は誰彼構わず愛想よくしてしまう癖や、わざとあほっぽく振舞ってしまう癖が抜けないのです。

ついこの前も他人から「多動ちゃんってわざとアホのふりするところあるよね」と指摘されて切なくなりました。
他人に媚びることでサバイブしていた学生時代の哀しい名残です。



② 社会に求められるのは大人しく従順な障害者


わたしは20代のとき、障害者枠で就職活動をしました。
一般の就活生と同様に、ネットで情報収集したり、企業の見学会に行ったり、履歴書を送ったり、面接の練習をしたり。
その時期に、障害者枠専門のリクルートエージェントが執筆したコラムでこんな表現を見ました。

「日本の会社で採用されやすいのは『大人しく従順そうな障害者』である。逆に『アクティブでエネルギッシュな障害者』は面倒そうだと敬遠されやすい」

私自身、就活をする中で「おとなしく従順そうな障害者が求められている」とうすうす感じていました。

企業が求める障害者像(企業にとって扱いやすい、都合のいい障害者像)のコスプレをして面接を受けることで、内定を得ました。



実際に「障害を持った人」という肩書きを持って社会に出て働くようになったとき、痛感したのは、
「『多様性』の輪に入れてもらえるのは、マジョリティにとって受け入れやすいマイノリティに限られている」という現実です。

自分の担当業務を円滑に進めるには、周囲と上手く協働しなければなりません。
障害特性で困ったときには周囲の助けを借りないと、仕事が滞って各所に迷惑をかけます。

本来の私は、思想が強く、主張も強く、頑固で融通が利かず、かなり面倒くさい性格をしているのですが

職場では、健常者へ迎合を重ねに重ねて「清く正しい障害者」に擬態していました。

擬態疲れを飛ばすため、退勤したら即コンビニに駆け込んでお酒を買って飲みながら帰るようになりました。
職場で常に気を張り続けているせいか、自律神経がおかしくなり、睡眠薬なしで寝れなくなりました。

ついには、うつ病を発症。
抗鬱剤を飲み続けても鬱症状を抑えることができず、やがて職場に行くこともできなくなりました。




ここまでの身の上話から言いたいのは

品行方正和顔愛語な障害者のコスプレは身を滅ぼすぞ!!!!!
若き障害者諸君よ、ぜったいに私の二の舞になるなよ!!!!!!!!!!!!
自分の心だけは何としてでも守り抜いてくれ!!!!!!!

ということです。




③ 人間の心は繊細なつくりをしている

健常者に媚びる行為は、あなたの尊厳を削ります。
健常者に媚びる行為を何百回、何千回と続けることは、心を一ミリずつ削っていくようなものです。
そしてある日、もう取り戻せないほどに尊厳が失われてしまったことに気づきます。

人間……哺乳類ヒト科というのは、地球上のあらゆる生き物の中で、もっとも複雑な感情や思考を持つ高等動物です。
つまり、わたしたち人間の心というのは、とても繊細にできているのです。

自分がそこに存在しないかのような孤独感。
素直な自分を出したら人に見捨てられるのではないかという不安感。
ずっと偽りの自分で生きていくしかないのかという絶望感。

こんなものを何年も、何十年も抱えて過ごす中で、心が壊れてしまうのは自然なことだと言えます。


わたしは品行方正和顔愛語な障害者のコスプレをしすぎて、うつ病を発症しました。
現代の医学では、うつ病は完解はしますが完治はできません。
私はこれからも抗鬱剤を飲みながら、再燃しないように気をつけて生きていかなくてはなりません。

繰り返しになりますが、これからの未来ある10代20代の障害者には、ほんとにこんな経験をしてほしくないのです。



④ 品行方正和顔愛語な障害者のコスプレをする上での注意点

とはいえ、人権意識の浸透しているとは言いがたい現段階の社会においては、品行方正和顔愛語な障害者のコスプレをしておいたほうが、スムーズに事が運ぶ場面も多く存在するのは事実です。

自身の心が削られるデメリットと、スムーズに物事を進められるメリットを秤にかけて、後者が勝つならば、世渡り術として割り切って品行方正和顔愛語な障害者のコスプレをすることも止む無しだと思います。


もしあなたが品行方正和顔愛語な障害者のコスプレをするならば、コスプレをしている時間以上に、本来の自分で過ごす時間を大事にしてください。

ありのままの自分を出せる家族や友人との時間を大切にする。
当事者のコミュニティに行ってみる。

身近に気軽に話せる人がいないという人は、Twitterに吐き出すのも一つです。
Twitterのタイムラインは言わばブラウザ上のガンジス川。
どんな感情もどんな人生も受け入れては流してくれます。
気持ちを言語化してガンジス川に放り投げるだけでも、随分気分転換になるものです。
(身バレリスクを伴う方法なので、偽名でやる・伏字で書くいった対策をするか、非公開設定を確実にしておきましょう)

文学や音楽、絵画といった創造活動を通して自分の内面を表現するのよいでしょう。



そうはいっても、いちばんは世の皆様に人権意識が浸透して、みんながありのままの自分で過ごせることなんですよ。

ただでさえ障害をいうハンデを背負って、日々の生活だけでも大変なのに、健常者に媚びないといけない世の中なんてクソすぎる。

「障害者は品行方正を貫いているか一挙手一投足を逐一チェックされ、マイナス点がたまると『配慮しなくていい存在』にランクが落とされる社会、普通に異常なディストピアなのに、マジでこのレベルのことを言ってる人間が多くて頭抱える」といった投稿をお見かけし、私は激しく同意いたしました。


健常者にいろんな性格の人がいるのと同様、
わたしたち障害者にもいろんな性格の人がいます。

人と関わるのが好きな人もいれば、
マイペースに静かに過ごすのが好きな人もいる。

世渡り上手な人もいれば、
不器用で、感謝や喜びを表現するのが苦手で誤解されやすい人もいる。

いろんな人がいるからこそ、人間って面白くて、興味深くて、味わい深い生命体だな……としみじみ感じます。



だからこそ、誰もがありのままで生きられる世の中であってほしい。

今生きている障害者はもちろん

「愛される障害者になれ」と主張しているマジョリティにだって
事故や病気で障害者になってしまったときには
ありのままで過ごしてほしい。

かつて健常者だった自分が発した言葉が、障害者になった自分の首を絞める事態にはなってほしくないのです。




「書かなくては」という使命感に駆られて4400字、ここまで一気に走り書きで書かせていただきました。
どえらい長文になってしまいましたが、ここまでお読みいただいた方、ありがとうございました。




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