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うつ病になって絶望している人に届けたい有名な詩があります



うつ病になって絶望している人に届けたい詩があります。


タイトル「神の慮り(おもんぱかり)」


神の慮り 詩 ポエム 手書き



字が汚くて読みづらいわ💢💢💢って人のために文字入力したものも貼っておきます。





神の慮り 


大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようと
成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

人生を楽しもうと
たくさんのものを求めたのに
むしろ人生を味わうようにとシンプルな生活が与えられた

求めたものは何一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられていた
わたしはあらゆる人の中で
もっとも豊かに祝福されていたのだ


アメリカの州立病院の壁に走書きされていたもので、ベトナム戦争で負傷した兵士が書いたものではないかと言われているのだけど作者は不詳なんだそう。

有名な詩人の作品とかじゃなくて
無名の兵士の走書きってのがまた趣があって良きですね。



 * * * * *



「普通のレールから外れてしまった」


うつ病を発症したとき、絶望した経験のある人は多いのではないでしょうか。


うつ病を発症した場合、ほとんどは休職や離職を余儀なくされます。

休職した場合、復職できたとしても「精神疾患の既往のある人」のレッテルが貼られ、社内で腫れ物扱いされてしまったり、白眼視されてしまったり、出世コースから外されてしまったりするケースも珍しくないと聞きます。

離職した場合は、減っていく貯金残高に焦ることになります。


うつ病は、記憶力や集中力、体力気力を奪います。
すぐにエネルギー切れするようになります。

例えば、うつ病になる前なら   

①病院に行って
②図書館に行って
③買い物に行く

と1日に3つくらい用事をこなせていたのが

うつ病になった後は

①病院に行って

をするだけで、本日のエネルギー残高がゼロに。
とても図書館や買い物に行くエネルギーなんてなく、家に帰るやいなや横になって数時間、石のごとく動けなくなってしまいます。

健康な人と比べて、人間として活動できる時間が少ないためエネルギーを慎重にやりくりしないといけない。
配分をミスってエネルギー切れになるとすぐに石になってしまう。

急に動けない日もやってくるから予約や約束も下手にできない。


わたしはうつ病で休職した頃がいちばん絶望していたように思います。

みんなと同じ「週5日、朝から夕まで働く」ことができなくなり、人間不合格になってしまったような気持ちでした。

同年代はみんな働いているのに、私は働けていない。

用事で外に出れば

駅の係員、区役所の職員、病院の受付の人、配達中の郵便局社員、外回り中のOL、レジスタッフの人など

どうしても同年代の働く人が視界に入ってきて、そのたびに負い目を感じていました。

今までにできていたことができず
頭もうまく働かず
未来も見えず。

いっそ死んで楽になりたいと思っていました。



ある日、エネルギー切れを起こして石になりながら、ぼんやりと眺めていたTwitterでこんなやりとりを見つけました。



うつ病Aさん:
精神疾患になったら人生終わるのだ。(中略)精神疾患って治らないのだ。脳の異常なのだ。ゆで卵を生卵に戻せないのと同じなのだ。

うつ病Bさん:
ゆで卵になっちゃったら諦めて煮卵にしてラーメンにトッピングするのだ


Bさんのコメントに「ああ、そうか。ゆで卵になったらゆで卵としてやっていったらいいのか」と新しい発見をした気分になりました。



「わたしはゆで卵。わたしはゆで卵。わたしはゆで卵・・・」と念じながら生活するようになり😂
こんなことにも気づきました。


生卵とゆで卵だったら、生卵の方が可能性が多くありますよね。
半熟卵にも、卵焼きにも、目玉焼きにも、卵スープにも、オムライスにも、製菓の材料にもなれます。

しかし生卵だろうとゆで卵だろうと、最終的には食べられるなり腐るなりして分解されるわけで。

それは人間も同様で。

健康で可能性が多くあった人も、うつ病で可能性が限られてしまった人も、
最終的には生命活動を終えて土葬なり火葬なりされて分解されるわけで。

どんなルートを歩もうと行き着く先は分解からの「無」。

「ゆで卵なりに余生を過ごすのもアリだな。どうせ無に帰すし」と思えるようになって、うつ病になった自分を少し受け容れることができました。



そうはいっても、病気を受容するという課題は、トントンと一直線で進められるものではありません。

進んだり戻ったり、上がったり下がったりを繰り返しながら、ゆるやかに、ゆるやかに、ほぼ平行に見えるくらいにゆるやかに、上昇していくイメージです。


わたしは抗鬱剤を飲むようになって3年近くが経ちました。

3年と言えば、そこそこ長い年月ですよね。

小学校を卒業して春休みの12歳が、ランドセルを処分して、「中学生になったら何の部活に入ろうかな」と友達と話していたのが
中学校を卒業して春休みの15歳になって、お化粧道具やヘアアイロンを使いこなすようになって、「高校生になったらバイト何しようかな」ってタウンワーク眺めて面接の電話できるくらいの
成長を遂げる年月ですよ。

それだけの月日を重ねても、いまだにうつ病を発症する前の、今よりも色んなことができていた過去の自分と比べては、失ったものを嘆くモードに入ってしまうときがあります。


そのたびにわたしは「神の慮り」を読み返すようにしています。


今の私にはまだ「神の慮り」の感想をスッと言葉にするのは難しくて
無理に言葉にしようとしたら薄っぺらい表現になりそうで
大好きな詩を薄っぺらい言葉で伝えるのは嫌なので
今回は感想を語るのは控えておきます。


良い意味で諦める、言い換えるなら、健康とか成功とか諸々への執着を手放すことは、病気を受け容れるうえでの絶対にクリアしなければならないことです。

この詩は病気を受け容れる過程にいる人に寄り添ってくれる力があると思います。




・・・まあ私は無宗教者なんで、神みたいな科学的根拠のないものは信じない派なんですけどね😂

ここまで語っておきながら神を信じてないんかい!って言いたい方もいるかと思いますが、それとこの詩の良さは別なのでノープロブレム。