「看護師になりたい」車椅子ユーザーの夢を応援できない私は差別思想を持っているのだろうか
わたしはこれまでさんざん、
障害者には選択肢が限られているだの
健常者と障害者には平等とは言い難い現実があるだの
健常者は自分が無自覚に振りかざしている特権に気づくべきだの
声高に主張してきました。
しかし今日、車椅子ユーザーの女性が受け入れ可能な看護学校を探している、という新聞記事を読んで複雑な気持ちになってしまいました。
正直言って彼女の行動を肯定できなかったからです。
障害者の挑戦を応援できない私も、じつは差別心を持っていたのか......自問しました。
新聞記事の概要は下記の通り。
車椅子ユーザーが看護学校に…!?
さすがにこれは無茶だと思ってしまいました。
受け入れを断った学校側を責めることはできません。
まず第一に、車椅子ユーザーにできる看護行為は限られています。
出来ることと言えば
・入院時や受診時の情報収集
・患者への生活指導
・バイタルサイン測定(呼吸や脈拍などの測定)
でしょうか。
作業スペースを工夫すれば採血もできるかもしれません。
逆に車椅子ユーザーに難しいものは
・入浴介助や食事介助など身体介護全般
・ストレッチャーやベッドへの移乗
・床ずれを防ぐための体位変換
・導尿、浣腸、摘便などの排泄ケア
・急変時の対応
などでしょう。
創傷ケアも部位によっては難しいと思います。
同僚の看護師と分担して車椅子ユーザーでもできる看護行為に専念したらいい、という意見もあるかもしれませんが、同じ給料をもらっている同僚はそれで納得するでしょうか。
災害時の対応ができるのかも疑問です。
たとえば病院で勤務中に大地震が発生。数分後に津波が到達するとの速報が出て、限られた時間で一人でも多くの患者さんを屋上に運ばないといけない、という事態が発生した際に車椅子ユーザーの看護師がいたら、戦力になるどころか要救助者が一人増えてしまいます。
第二に、向き不向きで夢を諦めることは誰しもあることなのに、車椅子ユーザーにはそれが通用しないのはおかしいのでは?という疑問です。
健常者であっても、向き不向きの問題で看護師の夢を諦める人はいます。
わたしはとある大学の看護学科を卒業しています。
看護学科の同級生に理子ちゃん(仮名)という子がいました。
理子ちゃんは頭脳明晰で、難しい事象をやさしい表現に嚙み砕いて理路整然と説明するのが得意な子で、塾講師のバイトをしていました。
高校生に理系科目を教えていたようです。
しかし理子ちゃんは「手続き記憶」を極端に苦手としていました。
手続き記憶とは、自転車の乗り方とか、クロールの泳ぎ方とか、ちょうちょ結びのやり方とか、そういう体で覚える記憶のことです。
手を使う記憶を致命的に苦手としていた理子ちゃんは、実技で大いに苦労していました。
看護学科では定期的に実技試験があり、それに合格しないと進級できません。
理子ちゃんは実技テストの練習を人の何倍もしていました。
放課後に理子ちゃんの実技練習につきあったこともありました。
練習用のベッドがずらりと並んだ演習室、夏の夕日が直射してじっとりした暑さの中、再再試験に向けて、汗ばみながら、大粒の涙を落としながら練習する理子ちゃんの隣に立っていて、なんだか胸がぎゅっとなったことを覚えています。
結局、理子ちゃんは看護の道を諦めました。
その後は理工系学部に入り直し、現在は理工学系の研究を生業として暮らしています。
看護学科在学中にてんかんを発症して退学した同級生もいました。
彼女はてんかんの症状を抑えるため、服薬調整を続けていましたが上手くいかず、突然看護学科から去りました。
仲の良かった友達にも何も告げずに去ったので、彼女が今どこでどうしているのかは不明です。
わたし自身も、看護の道を諦めた人間の一人です。
看護師免許を取得して病院で働き始めたものの、発達障害のため業務についていけずたった一年で退職しました。
その後は障害者枠で就職活動をし、工場作業員の職に就きました。
看護の夢を失っても人生は続くから。
障害があってもできることを洗い出し、その中から仕事を探しました。
車椅子ユーザーでなくても身体的な不向きから看護の道を諦めることあるのに、車椅子ユーザーだけ例外というのは違和感があります。
もしも、車椅子ユーザーを受け入れ可能な看護学校が今度見つかったとしても、実技試験はどうなるのでしょうか。
理子ちゃんみたいな事情で退学していった人を思うと、車椅子ユーザーだけ実技試験を免除するというのは不平等に感じます。
第三に、看護という職業は傷病人のためにあるのであって、個人の自己実現のためにあるのではないという当たり前の前提です。
医師や薬剤師、検査技師、臨床工学技師など、さまざまな医療職の中でも、看護師はもっとも身体的に患者に密接してケアを行う職業です。
SDGsだなんだで組織のダイバーシティを善とする風潮の強まっている昨今ですが、傷病人に適切な看護を提供する、という視点から見れば
看護師の集団に車椅子ユーザーが入るというのはさすがに違う……と思わざるを得ません。
個人の自己実現のために患者に不利益が発生すれば本末転倒です。
社会は分業制です。
看護の仕事は五体満足な人に任せておけばいいのです。
それで社会は回ります。
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障害者の要求のどこまでが正当な権利の主張で、どこからがモンスター要求なのか。どこまでが区別で、どこからが差別なのか。
曖昧なところも多いし、発達障害を持っていて一応障害者であるわたしも日々悩みながら生きています。
看護学校に入りたい、看護師になりたいと今もさまざまなところにかけあっている車椅子ユーザーの行動は、正当な権利の主張なのか。
それともモンスター要求なのか。
明確に区切ることは難しいと思いますし
さまざまな意見があると思いますが
少しばかり看護の世界にいた人間として
障害当事者として
決して理想論じゃ物事は進まないことを痛感してきたからこそ
わたしは、新聞掲載の車椅子ユーザーの夢に手放しで賛同することはできませんでした。
これまでさんざん障害者には選択肢が少ないことを訴えてきましたが、理想論ばかり言ってられない現実を盾に障害者の選択肢を狭めることを容認している私も、もしかしたら無自覚な差別思想を持っているのかもしれません。