見出し画像

じいちゃんは呆気なく死んだ

おはようございます。晴です。
今日は、人の死について書こうと思います。
といっても、そんな立派なことは書けません..
死後の世界とか信じてないし。

去る6月1日、わたしの大好きな祖父が亡くなりました。享年89歳、心不全でした。
亡くなるまでの1ヶ月間は、自宅で介護していました。
家族全員でバタバタ介護、じいちゃんは酒が飲みてえ!と叫び、パンをむしゃむしゃと食べる。それはそれは楽しかったです。笑
(この辺はまた別の時にお話ししますね)

そんなこんなで、自宅で看取ることが出来ました。

私、死ってもっとドラマティックだと思ってたんです。
愛する家族に囲まれて、愛してるよ...パタンっみたいな。

ところがどっこい、現実はもっとこざっぱりしたもんでした。(もちろんたくさん泣いたよ)

うちのじいの場合。
愛する家族に囲まれて...ってのは成功。
亡くなる15分前くらいから下顎呼吸が始まりました。(亡くなる直前の呼吸のことです。顎を上にクイッとしゃくりあげるように呼吸します)
最期の時が迫り、だんだんと下顎呼吸の頻度が落ちます。
じいちゃんは、耳が遠かった。
だからそこで私は、すかさず補聴器を耳に入れました。
するとみんなの声が聞こえたようで、反応がありました。
そのときおそらく何かを喋ってたんだと思うけど、聞き取れなかった。
でも、".大丈夫、皆いるよ!"と伝えられました。

いよいよ最期の呼吸...
吸ったのかな、たぶん。
人生最期の呼吸は、吸ったんだと思う。

と思ったらまた呼吸した!!!
フェイント!?と思ってたら
本当に呼吸が止まった。

呆気なかった。
人は、静かに死ぬんだ。と思った。
89年の長い旅路は、こんなに急に終わるんだ。

それから、呼吸をしなくなったじいちゃんは抜け殻のようだった。
魂は体に入り込んでる(借り暮らし).だけで、魂がなくなったら抜け殻なんだなあ。
だって呼吸をしなくなったら、じいちゃんじゃなくなっちゃったような気がしたから。
寝てるようだね...なんてありきたりな言葉があるけどね、全然違う。
苦しみからも喜びからも解放されたような、ぽっかりした表情だった。
それはそれでいいのかな、私の記憶の中にじいちゃんはずっといるから。


でも、悔いはなかったと思う。
亡くなる1ヶ月前から、たくさん介護できたから。
たくさん話せたし、肩揉みもしたし、マッサージもしたし、念願のドジョウも食べさせてあげられたし、後悔なんてしてない。って思うことで、正気を保った。

もしもこれが突然の別れだったら、きっと気が狂っていただろうな。と思う。

大好きで偉大なじいちゃんは、私に最後の教えを説いてくれたんだなあとも思う。
人は呆気なく死ぬよ、でも怖くない、先にはじいちゃんがいる、大丈夫だ

なんて思いながら、昨夜もじいちゃんの仏壇の前で酒を飲んだ。
四十九日法要の前日まで深酒してごめんな、血は争えねえ。
でもわかってよね、分かってくれよ。
みんなが大好きで、人望の厚かったじいちゃん、会いたいなあ

なんてしみじみ思う8月の終わりでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?