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ファンという悩ましき存在~承認欲求を競い合う時代だからこその、立ち位置~

わたしは、どこまでも受け身な人間だと思います。
それは「なにかを攻める」に対する「受け身」というそれでなく、なにかを作り出すよりも、ハンドメイド作家さんや好きなアイドルから生み出された「表現」をどう受け止めるか、という立場になることが多く、またその経験を咀嚼し発信するスタンスで世界を見つめている、という意味の「受け身」です。
と書くと、わたしにとっては「受け身」であることが発信の基盤であり、それは「攻める」と同意義なのでは無いかという矛盾にもぶち当たるのだけれど、ここでは簡単にあくまでどちらかというと、わたしは「客」目線の要素の強い人種である、理解していただければ幸いです。

さて、そんなわたしだが、Twitterを見ている方はご存じかも知れないですが、最近、コンサートでのファンのマナー問題を綴ったTweetがバズり(いま現在RT2000回越えだから、これはバズったといってもいいだろう)しかもそれが論議を呼ぶものだったから、不肖ツルカワ、RTが伸びるごとに生きた心地がしなかったりしました。(そんなに迷惑なリプはこなかったけど)。

ここではそのTweetを紹介することはしませんが(もう拡散され尽くされたと思うので)「コンサートのマナー」というのも、いかにも、わたしらしい「客目線」の話だったなあと思うわけです。

そこで今日は、そこから思考が派生させて、表現の受け手である「客」・「ファン」の話を書きたいなぁと。「良い」または「賢い」客・ファンってのはどうあるべきなんだろう?という話です。(…わたしの一意見です、これが絶対とは申しませんので、そこはあしからず)

…答えを先に書いてしまいますが、そのうえでいろいろ考えたわたしの結論が、以下のふたつのTweetです。

もう上のふたつのTweetで書き尽くしてしまった感はありますが、補足も併せて語ります。ファン心理、ってのは面白くてやっかいなものですよね。憧れの作家さんやアイドルと、親しくなりたい、自分とだけのヒミツを共有したい、もっと関わりたい、つまりは「あの憧れのひとに認識されたい!」。そんな欲求と裏表なのがファン心理だと思います。

それ自身はごく自然なことであり、否定すべきモノでもないのですが、「良い」ファンであるためには、その「認識されたい!」という「押さえがたい承認欲求」との葛藤・抑制が必要なのでは無いかと。

例えば憧れのひとに認識されたいが為に、熱烈に自分をアピールするひと、いますよね。コンサートでコールを送ったり、作家さんの展示や販売場所に駆けつけたり。そう、上に書いた「熱烈なファン」のひとです。でもそれが過ぎると、同じく上に書いたとおり、他のひとが、その憧れのひとを敬遠する機会をつくってしまうのではと、わたしは危惧してしまうのです。そして、結果、そのひとの活動を積ませてしまう。そんなことが、実は身の回りで頻発してるように思えてならないのは、わたしだけでしょうか。ことに、SNSという手段の発達した、個々人の承認欲求をむきだしにしてしまう今日この頃。

「熱烈なファン」の存在はありがたいものです。本来は。何しろ目に見えやすく、応援される本人たちは何よりも心強いでしょう。ああ、ありがたいな。そう感じてると思います。そう感じられてるだろうからこそ、「あなたが好き!」というアピールをファンや客はします。でもそのやり方をあやまってはならないと思います。時には「周囲からどう見えるだろう?」そうファンは自問自答することが絶対に必要。いけいけどんどんに、必死になりすぎて「なにあれ」になっていないか。そしてそういう自分の行為が鏡となって、憧れのひとの評価を下げたりしていないか。

要はバランスです。熱烈なファン・客が必要な時期や足りていないひともいます。でも、もしそれが足りているというなら、ちょっと自分が勇み足かなと思うなら、たまには「さらっとしたファン」になってみませんか。売上や集客には貢献しても、必要以上に自分をアピールしない、さらっとしたファン。その存在はサイレントですが、わたしは、そういうやり方が、じつは「良い」というか「賢い」ファンや客のあり方なんじゃないかと思います。

そして、応援される方も、目立つファンや客だけに支えられているわけで無いと常に意識すべきなのは、言うまでも無いことです。サイレントなファンを、けっして軽く扱ってはいけません。そこにも自分の活動の基盤があると、忘れてはなりません。

…と偉そうに書きつつも「わたしがわたしが」とついつい好きなひとの前では熱くなってしまうツルカワです。なので、自戒も込めて書いてる記事でもあります。なるべく「さらっとしたファン」でありたい。時には熱くなってしまっても、周囲と憧れのひとに気を配れる自分で居たい。そう心がけることにします。

いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。