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二年もかかったけど、ようやく。

電車を二回乗り継ぎバスも二回乗り換え。
でも、自分が住む同じ相模原市内である県立やまゆり園にやっとこさ二年越しで献花しに行ってきた。ずーっと気になりつつも、同じ障害者として、怖くて忘れたくて行けず、でも、2年目のあの日に、月命日には献花台があることを思い切って施設にかけた電話で教えてもらい、おとといの9月26日、漸く行けました。バスでウトウトしてたらけっこうあっという間に着いてしまい、遠かったのは寧ろ心の距離かと感じながら到着。

(以前相模原殺傷事件についての自身の思いを書いたnoteはこちら↓)
「わたしはわたしが人であることを確かめたい(閑話休題、のような主題、のような)」

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改築が続く施設の前で献花台に花をささげても、なんというか祈りの言葉が出てこない。あの犠牲者が感じた恐怖は想像なんてその場に行ってもできるものじゃなかった。

献花台には地元の元職員である支援組織、のような会の方々がいて、ゆっくりといろいろ説明されて、わたしも少し話をした。なぜ来たかも簡単に。
聞いてううむと思ったのは被告も地元育ちで、施設と関わりながら成長し、それでありながらあのような凶行に及んだことへの地元の方々のショック。忘れてはいけないですね、風化させてはいけないですね、としか言葉が出てこない。

帰りは橋本駅まで居合わせた新聞社の記者の方と支援組織の方の車で送ってもらった。

そのなかで、一言二言言葉を交わすうちに、わたしは堰を切ったように話し出してしまった。というのも話していて分かったから。わたしがなんでこの事件が人ごとではいと思い続けていたことを。

ブログにわたしを障害者と察知した何者から、中傷を受けていたときの憂鬱と恐怖。
それを公にしてはいけないと知人に言われたときの違和感。わたしが障害者であるのは隠すべきことで、恥ずかしいことなのかと悩んだ日。
それが収束し、わたしはもう全部開き直って「障害者ですがなにか?」というスタンスに転じた頃、まさに事件が起きたこと。
それは全部自分のなかで重なっているんですよ、周りの誰かがまた、開き直ったわたしを今度は別の手段で害そうとしてくるのではという漠然とした恐怖。それが今日、わたしをやまゆり園に足を向かわせたんですよ。

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…そんなことを濁流のように話してしまい、いまさら、ちょっと後悔。分かってもらえるように話せたかなと。僭越すぎやしなかったかと。

駅で車を降り、記者さんと町田まで一緒に電車に乗った。すぐに記事にはならないから、ここに来てることはバレると上司に怒られちゃうんです、でも何かヒントがほしくて。そんなことを聞いたり、被告が精神鑑定で無罪になったらどう思うか話したり。でも、あっという間に町田に着き、わたしは日常に戻ってきた。なんか悪い夢みたいだ。でも夢じゃないんだ。あの場所で起きたこと、いまも起こり続けてること。やっぱり忘れちゃならない。

写真は流石に撮る気にならず、いちおう記録として、バスのなかとバスの乗り継ぎの待合室で撮った写真を心象風景として、載せておく。捧げた花はマムとトルコキキョウとワレモコウ。なぜか仏花では犠牲者に捧げるのにしっくりこなくて、自分で選んで花束にしてもらったもの。

献花された花は夕方回収され、グループホームに飾られるそうなので、仏花でなくてやっぱりよかったのかもなと思った。
又、行けるときには行こう。いや、行かないと。
忘れられないんだよ、やっぱり。あの事件のことは。

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いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。