見出し画像

ヘルプマークを付けてみて、そのあと。~よわくもなく、つよくもない、わたしたちへ~

雨音と風が唸る、春の嵐。3月11日の朝。さて今日は、以前の記事で、ヘルプマークを多少勇気を出して付けて外出すると決めたのですが、その後の話です。

…結果から言えば嫌な目に遭うこともなく過ごしております。
特にジロジロみられることも、罵倒されることもなく。(普及していない九州に行ったときは?、という視線で見られましたが)。つらくてシルバーシートに座るときも、心なしか「あ、ヘルプマークつけてるからか」と周囲の方が納得して見てくれるような。立っていたとき席を譲っていただいたことも数度ありそのときは「気がつかなくてごめんなさいね」と言われる時もあり、そのお言葉には恐縮するばかりです。

よわくもなく、つよくもない。つよくもないけど、よわくもない。でもしんどいときもある。
そういうときには、ありがたい存在として、鞄にいまはさりげなく付けて外出することに慣れました。
それでも、具合がよく、「今日は大丈夫だな」と思うときは鞄の中にしまっておくようにしていますが。

そういえば、こんなこともありました。

足の悪い女性が電車に乗られてきたとき、反射的に、どうぞと声をかけてしまったのですが、そのとき、女性に「あなたもヘルプマークでしょ、座ってなきゃいけないわよ」と諭され、座らせたままにしていただいたこともありました。そのときは有り難く、隣の方が女性に席を譲ってくれて、短く会話を交わしました。
「ダメよ無理しちゃ」
「あ、でも大丈夫なときだけですので、お声がけするのは」
「あらそうなの、でも、無理しないのよ」

で、女性は先に電車を降りられるとき、わたしに丁寧に一礼してくれました。つい、わたしは自然と口から「お気をつけて」と出、それに対し女性は「あなたもね」と返し、背を向け電車を降りていきました。

弱いもの同士…いや、よわくはないですね…助けが必要なもの同士が互いに気遣えあえたのは、ヘルプマークあってこそ。それが今のところ、ヘルプマークを付けて一番良かったと思える体験でした。

ひとはだれもよわくもなく、つよくもないけど、そのどちらかの立場に、時に意に沿わず立つことになる。生きていれば当たり前のことです。普段から、どちらかがどちらかをどうする、というのではなく、だれもがどちらの立場にもなりうることを日頃から想像し、そのときどうするか。そしていざという時、それができるか。

ときに引き上げ、ときに引き上げられ。それが「手を貸す・借りる」「支える・支え合う」ということの本質なのかもしれません。

3月11日という今日に結びつけて考えれば、まだまだ被災地は復興への助けが必要です。そのうえで、被災地と他の地域も、そういう関係に向かう時期に差し掛かってるのかも知れません。

・・・3.11の朝にこの記事を書き上げたのは偶然です。なので、わざわざ震災と紐付けるのはどうかと悩んだのですが、8年経ってもあの記憶は鮮烈で、そしていて今回の記事のテーマとも通じるところも自分の中にあり。そこで、やはりひとこと言葉を添えたく感じ、文章の最後でありますが、言及させて頂いた次第です。



いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。