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わたしたちは彼女=少女を消費してこなかったか

ハンドメイド変態と同じくらいの熱量で、モーニング娘。が好きなわたしだが、モー娘。を好きになったのは、実は保田圭ちゃんからなんです、というと大抵の人が驚く。え、なっちでも、ゴマキでなくて、よりによって圭ちゃん?、という笑いに似た反応をいただくことは本当に多い。

圭ちゃんといえばいまや、ママタレントイメージだが、かつてはいじられキャラとして世間の認識は定着していた。いじられキャラといえば圭ちゃん、というような一時代もあったかと思う。特に「うたばん。」最盛期。あそこでのいじりで圭ちゃんは世間に大きく認知されて、今に繋がるから、本人もいじられキャラだったことには感謝しているようだけど、ファンとしては大いに複雑だった思い出がある。だって大好きなアイドルがバカにされるような、嫌なこと言われて喜んでることはできないでしょう。「お、出番増えておいしいなー」という思いは微かにあったにしろ、いま、保田圭、でYouTubeを検索すると当時からのいじりネタの動画の嵐が出るのには、ため息しかない。そしてあの頃を振りかえり、「いじられて美味しかったね」と言っても「辛かったね」と言う人は見たことない。

同じくモー娘。でいじられキャラ、といえば、もう三年前に卒業、引退してしまったけど、鈴木香音ちゃんではないだろうか。もう一般人であるのにわざわざ言及するべきなのでは無いのかもしれないが、あえて。彼女はアイドルとしては確かに体型が太かった。それをいじられたりまた、彼女自身が自分でそれをネタにして「自虐ネタ」と称されることは本当に在籍時多かった。そして、そのときもわたしは心が痛かった。10代の多感な女の子が、アイドルとはいえ、体型をネタにいじられたり自分でネタにしなければいけないのはどんなに辛いだろうかと思うのだ。だから、わたしは、彼女が芸能界を離れると聞いたとき、寂しさとともに、どこかほっととした思い出がある。いや、いまでも寂しいのだけれど、もう残酷な国民レベルの好奇心と笑いに傷つかなくていいんだな、と思うと、ほっとせざるを得ないのだった。

有名税とか、人から認知されるからいいじゃんとか、美味しい立場じゃん、と他人や世間が言うのは容易い。そして2人は最後まで、微笑んで、ときに冗談やネタにして「アイドル」として愚痴はこぼさなかった。でも内心はどうだったのだろう。どうなのだろう。同じく10代を体型や外見で嗤われてきたわたしは、自分の身に起こったらと思うと、その集団の無意識の悪意にゾッとする。

わたしは今もモー娘。をはじめとした、ハロプロが好きで、だからこの運営母体である事務所のアップフロントにはリスペクトを余儀なくされるけど、この2人の件については、おかしいというか憤りに近いものを感じてる。なぜ、一番影響力があり、身近な大人として、守ってあげられなかったのか。それを売りとして、アイドルであることを放置したのか。それが強要だったのかは知らないけど、大人として、そういう売り出し方を、例え「美味しい」としても彼女たちの心身を思い、それをなんとか完全には無理でも、軽減させたり、またはずばりやめるように仕向けたりするべきだったのではないか。

そして、わたしたちは、その手にみすみすのって、彼女たちの存在を敬意や憧れという感情でなく、悪意という「最悪の無意識」によって、「消費」していたのではないだろうか。

余計であるけど、最近世間を賑わすNGTの件は、それが、直接アイドルに手が及んだだけだとも思うのだ。「アイドル」という存在を「消費することに慣れてしまった」「わたしたち」。それが、有名税なんだから何をしてもいいと、どう扱ってもいいという、考え。そこはNGTの件にも、モー娘。の2人の扱いにも、共通して流れるものであると、苦い気持ちで感じている。

わたしたちは彼女を、彼女たちを、少女を、消費してこなかっただろうか。少女を消費するとは、児童ポルノに手を出したりする行為だけでは無いのである。わたしはモー娘。ヲタとしても、そうでないとしても、ちゃんと、このことを考えたい。

いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。