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わたしはわたしが人であることを確かめたい(閑話休題、のような主題、のような)

成り行きでnoteに手を出し、自分が「ハンドメイド変態に至る道」というきわめて私的な話をしはじめて2週間余り経ちました。
正直、手ごたえといっていいのかわからないけど、思った以上の方に読んでいただいてるようで、ここで連載の手を止めて感謝の意を申し上げる次第です。ありがとうございます。

でも今日はそれだけでない話を。
タイトル以上でもないしタイトル以下でもない話題です。
わたしはタグもつけてるしプロフィールにも書いてるので、わざわざ今更言うまでもないことかもしれませんが、精神障害者です。病名は統合失調症。昔で言う精神分裂症ですね。さあ、こう書くと「こわ」ってちょっとでも思いませんでしたか、あなた。いいんですそれでも。わたしだって罹るまではそう云う反応したし、正直、同じ病気を抱えてる同士でも「こわ」「こわ」と思うシーンはざらにありますもん。

話を戻しましょう。わたしが今住んでるのは、冒頭に書いたように離婚後、転がりこむようにやってきた神奈川県相模原市です。(実際は一度離れるのですが、そのエピソードは今後の連載にて書きます)
さて、約二年前その相模原市内で起きた事件…と書けばもうこの話の流れでお分かりかと思います…施設の元職員による、精神障害者の大量殺傷事件、を皆さん覚えておられますでしょうか。

ちなみに、わたしは忘れてました。正確に書けば、忘れようとしてました。

相模原市は政令指定都市なのですが、それゆえ数年前に多くの周辺町村と合併したため非常に広く、事件の起きた「津久井やまゆり園」はわたしの家からはかなり遠いです。ですので同じ市内で起きながらも直後は「それは悪い夢ではないのか」というのが正直な実感だったのですが、衝撃は事件後数か月を経てボディブローのようにじわじわ効いてきました。
自分も病状は異なれど「精神障害者」のくくりに入ることは間違いなく、自分もあのように殺されるのでは、と恐怖を味わい、そしてそれよりきつかったのは自分も「殺される価値のある」人間なのかという自問自答でした。
気が付けばそれを考えてしまう日々でしたので、精神衛生上この上なくよろしくなく、いつかは行こう行こうとしていた献花も行けず、結果として、ここのところは忘れるように努めていたように…思います。

ですが加害者の手記が出るという報道で、一気に思いだしたのが昨日。
気が付けば食い入るようにその報道を読んでいる自分がいました。
そして加害者の「彼らは人ではないから、自分のやったことは人殺しに当たらない」という変わらぬ強固たる主張が、深く心に突き刺さりました。

でも、思ったんですよ。というか気づいたんですよ。
なんでいまわたしがハンドメイド変態として必死に生きてるかの理由を。
わたしはわたしが人であるか、を確かめたくて、日々格闘しているだな、と。ハンドメイド偏愛もそこからのライター業もギャラリー業、もっといえば今息をしている究極の理由は、自分が人であると証明したいからなのだな、と。

こんなわたしも、病気だからとやりたいことをあきらめたり、何もできないと思いこんだ時期も長かったです。いや、いまも多くのことをあきらめています。でも、過去と違うのは、あきらめたものの代わりになるものを見つけ、それを充実させて死のうと、そういう人生であろうと心していること。いつ死んでも、わたしがそこに居たことの有形無形の証明を、どんな形でもこの世界に刻み込んでやろう、と決め、暮らすこと。

それが、わたしがわたし自身を人であると確かめる、唯一の手段なのです。

そしてそれがあの事件の加害者に向けての、捉えにくくも、他に替えようのない、わたしのアンサーなのだと思います。

もう忘れなくていい。もう恐れなくていい。わたしはわたしが人であることを日々試しているから。実感できたり・できなかったりだけど、わたしに「殺される価値」はない。そして、綺麗事と言われても、たとえ呼吸をしているだけでも、みな、そうやって絶え間なくこの世界に存在証明を刻み込んでいるのだから、誰にも「殺される価値」は、ない。

近いうちに、献花に行ってこようと思います。

今日はどうしても綴りたく…閑話休題のような、でも主題のような話を書かせていただきました。決して気軽な話題ではないのに、最後まで読んでくださってありがとうございます。では次回からはまたハンドメイド変態への道のりを綴りますね。
お楽しみに。

(閑話休題、おわり)

いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。