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ストイックには、なれなくて。

何かのファッション雑誌のコラムにあった、有名メイクアーティストの言葉がずっと頭に引っかかっていた。いや、いまも引っかかっている。
どういう文脈か忘れたが、体型に関してのくだりで
「人間、40歳を過ぎたら、少しくらいカラダを絞ったほうがいいんですよ。ストイックさを周りにアピールできるくらい」というような意味のことが書かれていたように思う。

それを読んだのは、ちょうどわたしも40歳になったばかり。しかも体型のことは始終気にしている。これが心に引っかからないわけはなかった。その言葉の真意を「しまりのないカラダは、ストイックでない自分を曝け出してしまう」ということだとわたしは捉えた。

さて、もうすぐわたしは43歳の誕生日を迎えるのだが、その言葉のとおりにストイックにカラダを絞った…のとは全く逆で、ここ3年で残念ながら体重は20キロほど増えている。そんなに暴飲暴食したわけではないが、薬の合わなさと、運動不足、それと加齢が重なれば、そのくらい簡単に体重は増えてしまうものなのだ。

とはいえ、日々着られない服が増えていく。日々新しく大きなサイズの服を買いに走る羽目になる。それはとても屈辱的だったし、そして何より頭をその度掠めるのは、あのメイクアーテイストの言葉で、とにかく自分は、このカラダを晒すことで、この瞬間瞬間も、自分が自分に甘いストイックじゃない人間だと人様に語っているのだと、とても苦しい思いをしていた。

だけど同時にわたしは自分にも甘く、また、他人にも甘い自分が大好きで、自分に厳しく他人に厳しい人間とは、どうも相性が悪いなぁと思うことも立て続けにあった。
その結果、相性が悪いというより、自分にストイックなあまり、他人にもそれを強要してしまうような人間にはなりたくないし、どっちかというとそういう人は嫌いだなぁ、と認めざるを得なくなったのが最近のこと。

それからだろうか、あの「ストイック」という呪いの言葉から少しずつ抜け出せるようになったのは。あのひとは、そうかもしれない。でも、わたしは、あのひとではない。ストイックを好むあのひとでは、ない。

そう思うたびに、少しずつポロポロと、自分が思い込んでいた自身のカラダへの羞恥心から自由になっていく。これはなんと楽であろうか。女を捨てたとか、歳に負けた、劣化に妥協した、とか、そういう問題ではないのだ。わたしはわたしのカラダと心を、取り戻したのだ、という問題なのだ。こうであるべきわたし、というのは自分で決めることである、というシンプルな問題を解決できた、という解放感。これが楽でなくて、なんだというんだ!

でもまだ怖い。写真など撮れば自分のカラダの体積に呆然とするし、健康診断では眉をひそめられ、ひさびさに会う人には「いやぁ太っちゃってさぁ」と前もって笑ってみせる。わかってる。ほんとうは、思春期の頃から憧れていた、どんな服でも着こなせるスレンダーな、ストイックな、体型にわたしはまだ未練がある。隙あればそうなりたい。

でも、だ。この自由さは手放したくない。

何より、自分に甘くありたい。いいんだよ、と自分に言える人間は唯一、自分でありたい。そして、他人にも甘くありたい。厳しく断じたり、それはダメだと自分を押しつける人間にはなりたくない。世の中のストイックな人が全てそうとは思わなくとも、その立ち位置は、他人をも罰してしまう近道にあるような気がしてならないから。

最後に、こういうことを書くと、ダイエット業者のスキ爆撃を喰らうかもしれない。でもね、不快に思いつつも、わたしはその爆撃のなかを生き延びる覚悟がある。
ストイックには、なれなかったけど、自由であることには、ストイックであろう、という、なんだか矛盾みたいな決意が胸の奥に見えるから。
そして思うのだ、こんな加齢なら万々歳だと。


いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。