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原作者から解説する、映画『あの頃。』の背景と実際に起きていたこと。その2 「恋愛研究会。結成前夜」

<その1>はこちら ↓ になります

前回はハロプロあべの支部がどんな人たちだったか、ということについて書いたが、今回はそれがなぜ「恋愛研究会。」の結成に至ったか、思い出して書いてみようと思う。


ハロプロに夢中になり、新しい友人たちができた私は、件のやたらダイナミックなノイズバンドを辞めることにした。東京のイベントに呼ばれるようになったり、Half Japaneseの来日ツアーのオープニングアクトに選ばれたり、バンドはアンダーグラウンドな世界では少しずつ知名度も上がっていたが、なんせ大学の先輩であるバンドのリーダーのモラハラ(当時そんな言葉は知らなかったが)がエスカレートして青天井だったのと、4年活動してレパートリーが5曲しかないことに、この先まともに活動できる気が全くしなかったからである。

なんで4年で5曲しかできなかったかというと、完成したはずの曲が、次のスタジオになるとそのリーダーが「なんか違う」と言い出し、違うものに作り替えるという日々が際限なく続くからである。結果私たちのバンドは、ほぼ4年の間、同じ曲をライブの度に少しずつ違う内容で演奏していた。今なら、そういう曲が完成することのないサグラダ・ファミリアみたいなバンドも一つの表現だと思うが、当時の私はサグラダ・ファミリアよりもむしろレベル・ファミリアになりたかった。

あと本当にモラハラは酷かった。劇中に「バイトばっかりしやがって」と劔青年(演:松坂桃李)が怒鳴りつけられるシーンがあるが、私も実際に「バイトを辞めてバンドに集中しろ」と言われたことがある。正直、バンドでの収入は当然大幅マイナスだったので、バイトを辞めて収入が無くなったら確実に生きてゆけない。そう言ってるリーダーはメンバーの中で唯一の実家暮らしだったということも忘れてはいけない。

当時のバンドの状況に関しては、ここで詳しく話しています。↓

それだけ苦しくても、もう嫌で嫌で逃げ出したくても、私はバンドに依存していたところがあった。リーダーはなんだかんだ才能があり、魅力的な人だと思っていた。そんな人に自分が必要とされていることも無下にできないと思っていた。しかし、これは完全にDV加害者と被害者のソレであり、抜け出さないことには両者とも未来はない。私の場合、ハロプロに背中を押されたことで、もっと自分の人生を生きていいのだと判断をし、辞める勇気を持てたことは間違いないのだ。


バンドを辞めた私は映画の中では、仲間たちとただただハロプロに全エネルギーを傾けてのめり込んでいるようになっている。確かにそれも間違ってはいないのだが、実際は何かを表現したいという欲求は収まらず、まずは後輩の大学生で映像を勉強していた宮本杜朗という男に「一緒に映画を作らないか」と持ちかけている(彼はその後、本当に映画監督になる。代表作は『SAVE THE CLUB NOON』『太秦ヤコペッティ』など)。

それから新しいアシッド・フォークバンド『22歳の私』を結成している。恋愛研究会。結成に至る前のことだ。

このバンド名は、もちろん安倍なつみさんのあの名曲から拝借したもので、この時のギターが、難波ベアーズで出会い意気投合した、映画にも登場するアールくん(演:大下ヒロト)なのである。実際の彼は別にハロヲタというわけではなく、アンダーグラウンドで活動していたバンドマンだった。映画では藤本美貴さんのヲタという設定だが、紺野あさ美さんが一番好きだといっていた記憶がある。とはいえ彼に限ってはその後の恋愛研究会。への参加も、単に私たちと一緒に遊んでいるのが楽しかったからで、他のみんなのハロプロの話題に合わせてくれていただけのようなところがあった。

しかし、このバンドもボーカルが転勤により、数回のライブで活動は止まってしまう。私もその頃は小さな広告代理店の制作部に就職しており、忙しすぎてバンド活動どころではなく、仕事の後や週末にイトウさんの家に集まり、コズミンや西野さんたちとハロプロの話をするのが一番の生き甲斐になっていた。またその頃はmixiがあったので、とにかく我々はmixiの中でくだらないやりとりをしていた。

私が靖子ちゃん(演:中田青渚)からあやコンのドタキャンを食らったのはそんな時であった。彼女は映画の設定同様、私の大学の後輩で、私は確かに、「今度コンサート一緒に連れて行ってくださいよ!」と向こうから言われたので誘っただけなのだ。

映画では、誰も座るはずのない席に20年後の松坂桃李であるいまおかしんじ監督がやってくるが、実際私は、ドタキャンでいらなくなったチケットをコンサート会場前にいたダフ屋に500円で売っており、それを買ったおっさんと連番することになった。

もちろん、ダフ屋は違法行為で、チケットの売買は絶対にやってはいけない。

当時の私が「ダフ屋は違法」という意識が甘かったのは確かだが、なんか怖いし近付いたことはなかった。それがドタキャンのショックと、大金だった7000円のチケットが無駄になることに切羽詰まって売ってしまったのである。しかし、そのおかげで靖子ちゃんの代わりに現れたおっさんから「僕は20年後の君だ」と言われる経験をした。もちろんそんなわけはないので、幻か、亜弥コンで出た脳内麻薬でラリっていたか、自分の中で記憶の改竄があるかどれかなのだが。

なんせその日はドタキャン以外にもついていなかった。まず、朝から料金未払いで家の電気が止まっていた。

さらにコンサートの後、御堂筋に停めていた自転車がなぜか車に轢かれて乗ることができなくなっていた。これでは当時住んでいた住吉区我孫子の家に帰れないし、帰ってもどうせ電気が点かない。仕方なくコズミンに電話してドタキャンからの状況を説明すると、散々笑われた後に「うちに来たらええやん」と言われたので、本町から阿倍野まで自転車をガタガタ引きずりながら歩いた。途中、折れそうな心に気合いを入れるため、会場で買ったグッズの腕章を腕に巻いた。

コズミンの家に着くと、残り物のシチューを振る舞ってくれた。これが映画『あの頃。』名シーンの一つでもある、コズミンのシチューである。

「粉っぽい」「ザラザラしてる」というのは、おそらく役者さんたちのアドリブで、実際はびっくりするくらい可も不可もない味だった(コズミンは日頃自分は料理上手だと豪語していた)。


というわけで、この一連の経験が、私を再び表現活動への欲求に駆り立てる。

その時の私は、「何かはしたいが何をしたらいいのかはわからない」という、とにかく初期衝動に溢れた状態だったので、「自分の周りにいる人が一番面白いんだし、いつも一緒にいるし、この人たちをそのままバンドにしちゃえばいいんじゃない?」という一番安易な発想に辿り着いた。

モーニング娘。おとめ組のDVDを見ながら、「恋愛研究会。」をバンド名にしようと思いついたのも、最初はヒップホップユニットにしようという構想があったのも、曲ができる前にTシャツとキャップが作られていたのも、映画で描かれた通りである。

ただ違うのは、靖子ちゃんは一切観にきていなかった、という点だ。

(その3へ続く)



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