見出し画像

(閲覧注意) 舌を縛って二つに割いた話

金原ひとみの小説「蛇にピアス」を読んだのは確か中3の時だったと思う。大まかに言えば、舌を二つに割く人体改造、所謂スプリットタンをテーマにしたダークで退廃的な話である。

それを読んだ私は、「そのうちやってやろう」と思ったのだ。

舌を割くには主に二つの方法がある。一つ目は、メスや剃刀などで切っていくもの。二つ目は、舌にピアスを開け、その穴と舌先をテグスや糸で強く結んで徐々に切っていく方法、「タイオフ」と呼ばれるものである。

両者とも激痛が伴うと巷では言われていたものの、流石に舌をダイレクトに切っていくのには抵抗があった。仮に痛みを数値化したら天文学的なものになりそうだし、間違って太い血管などを切ってしまったら命に関わる。

なので、二つ目の方法「タイオフ」をやることにした。


2023年の5月に、舌にピアスを開けてみた。実はそれまで何回か開けていたことがあったのだが、毎回極度の喋りにくさや腫れ、食べにくさに辟易してすぐに取ってしまっていた。

しかしその5月、私は「何としてでもスプリットタンにする」という謎めいた根性のもと、喋りにくさ、食べにくさを乗り切った。一週間もするとピアスを全く意識せずに生活できるようになった。辛いもの、酸性の強いものも普通に食べられるようになり、思ったよりも楽だなという感想が湧いてきた。



舌ピアスは粘膜に開けるものであるため、ホールが安定するのが早い。ピアスを開けてから1ヶ月と少し後、6月下旬にピアスホールをテグスで結んでみた。
最初は痛くなかった。「最初は」。
毎日テグスを取り、結び直したが、痛みを感じるようになったのがいつだったのかは忘れてしまった。多分3日目くらいだったか。

また、縛ることによってホールが広がっていくのに合わせてピアスの拡張もした。
ピアスそのものの代金もバカにならないため、12G(直径2mmほど)から一気に6G(4mm)にしたのである。ボディピアッシングの愛好家ならお分かりだと思うが、舌でそれ(ゲージ数の飛び級)をやるのは狂気じみている。耳の拡張でも相当痛いが、舌に関しては今これを書きながら思い出すだけでも寒気がする。

あまり綺麗ではない

結ぶ時は軽く結ぶのではなく、テグスが千切れんばかりに強く縛るのである。いっそ一瞬でスプリットになってくれと思うくらいの猛烈な痛みが襲ってくる。じわじわと時間をかけるタイオフではなく、メスでも使った方がよかったかもしれない、とすら思う。


7月に入るとだいぶ割けてきた。
7月の5日から8日まで、札幌に遊びにいく予定があった。しかし、旅行すると言って「作業」を中断していたら、舌の形状は元に戻ってしまうかもしれない。私は糸切りバサミを機内に預けて、宿泊先でもタイオフをした。
札幌といえばラーメンだが、ラーメンを食べている最中に数回ピアスが脱落した。ホールがかなり広がってきたということだ。

ホテルの部屋で撮ったもの

東京に戻り、その後も解いては縛る作業を続けた。気を紛らわすために音楽を流しながらやることがほとんどだった。

東京に戻ってから4日ほど経過したある日、「皮一枚」になっていることに気づいた。舌の前面を見てみると、ピアスが入っているのではなく、「引っかかっている」のに近かった。

私は、その「皮」に鋭利なピアッシングニードルを当ててみた。


プチッと切れた



スプリットタンが完成した。その時、痛みはなかった。


今見てみると短い

私は狂喜した。長々と続いた苦行が遂に完結し、その「結果」は舌を見れば何よりも明らかだった。




そしてその後、アフターケアを怠ったため、「癒着」してしまった。もう2mmほどしか割けていない。もう、スプリットタンをやったとは思えない見た目になってしまった。

なので、私はもう一度やるつもりでまたピアスを開けた。



人が、自らの体の一部を徐々に割いていく、あるいは刃物で切っていく、という行為は狂気的である。なぜこのようなことをするのだろうか。

一般的に人は苦痛を自ら望まず、快楽を求めるようできている。一部の倒錯したマゾヒストは苦痛を求めるが、それは彼らにとって「苦痛が快楽」だからであって、所詮は快楽の原理に則って動いている。

所謂自傷行為には中毒性がある。「ほっとするから」と言うこともできるが、大脳生理学的には体を傷つけるとβ-エンドルフィンが放出されるからだ。それは普通のことであり、自傷行為をする人が一概にマゾヒストであるとは言い難い。

今回の「舌にピアスを開けて割いていく」という行為にはある特徴が存在する。それは「終点がある」ということだ。二つに割けた時点でそれはゴールである。また、私の場合癒着してしまったがそれは例外的であり、普通何回もできるものではない。普通のピアス、刺青は大半が繰り返すことができる。

二つに割けたらそれで終わり。一つの終着点に向かっており、リストカットのような「反復性」にはいささか欠けるという点で、スプリットタンの過程が純粋な自傷行為なのかどうかはよくわからない。


こんなことをもう一回やろうとする私は、狂っているかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?