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苦悩する国にさいわいあれ その5

3年後、柿本忠助はモスクワへの飛行機の機中にあった。モスクワ経由でキエフに向かうためである。機中にある柿本がキエフに向かうその2ヶ月前、マリーヤは日本をたち、ウクライナに帰っていったのである。

マリーヤは日本に3年半滞在した。彼女から、キエフに来てほしいという連絡をメールで受け取って、柿本はキエフに向かうことにした。念願のキエフ訪問である。ボリースピリ国際空港に着いたのは、夕刻であった。ここから、30キロ近く、西に移動して、首都キエフに到達するというのであるから、不便な空港である。

マリーヤの日本での滞在の最初の部分の1年半は、横浜国大での日本語習得、それに、柿本の勤務している会社、すなわち、「コムニカ・グロバーレ」というイタリア語めいた社名の会社でのバイトで忙しい生活を送った。次の2年間は慶応大学に入って、政治学を学んだ。特に、日本の政治の仕組みやあり方、さらには課題について徹底的に研究した。教授たちは彼女の聡明さに打たれ、また、卓越した言語能力にも感服した。

柿本は、一週間に一、二度の割合でマリーヤと会った。さまざまな話を忌憚なく交わした。とにかく、彼女の知識力には驚いた。大学で学んだ事柄について、次々に、柿本に質問をぶつけてきた。郵政民営化がどうの、三位一体改革がどうの、年金問題がどうの、憲法改正がどうの、まくし立ててきた。柿本は、質問をぶつけるところが違うだろう、教授に尋ねろ、と思ったが、一緒に考えてあげた。マリーヤにとっては、気心を許していた柿本が、一番、本音で付き合える友人だったのだ。

マリーヤは、日本の大手企業を熱心に研究した。トヨタ、ソニーなどをはじめ、「もの作り」日本の優れたところを大小さまざまの企業の中に発見しようと努めた。実際に、いくつかの会社を訪ね、説明を受けることもした。そのときは、必ず、柿本をドライバーとして引っ張り出し、会社まで連れて行ってもらった。柿本は、愛車のエスティマハイブリッドにマリーヤを乗せて、マリーヤが指示した会社へ向かうのであった。未来の大統領のドライバーであった。

会社の案内役の人に対する彼女の質問の内容は的確であり、そしてまた、その会社の案内人の説明に対して畳み掛ける質問は専門家の領域と言うべきものであったので、どこの会社の案内人も驚いていた。彼女の聡明さは群を抜いていた。こうして、彼女は、優れた政治をとるために、経済社会、企業世界というものまでもしっかりと自分の目で見ていたのである。未来に対する準備は着々と日本の地で進められていた。日本の地がウクライナの未来の女性大統領を生む子宮の役割を果たしつつあったと言うべきだろう。

マリーヤの日本での滞在期間の様々なことを思い出しながら、柿本はキエフに向かっている。マリーヤの家は、ウラジミール大聖堂からそう遠くないところにある。とにかく、ウラジミール大聖堂を目安にして、大聖堂まで来てほしいというやや乱暴な道案内をマリーヤから受け取っていた。

ボリースピリ国際空港からキエフ市内へ到着すると、タクシーを拾って、ウラジミール大聖堂へ走らせた。携帯電話で、マリーヤに電話すると、彼女は大喜びで、とうとう来たのね、私の国ウクライナへ、ようこそ、と歓声を上げた。

すぐ、彼女は自動車で駆けつけてくれた。10分も走らないうちに彼女の家に着いた。白い瀟洒なアパートであったが、家の中に入ると、間取りは広く、一つ一つの部屋もきれいであった。この母ありてマリーヤあり、とすぐ分かるような品のいい母親が出てきて、にこやかに柿本を招き入れ、部屋は空いているものがあるから、好きなだけ滞在しなさいと開放的な心温まる歓迎ぶりであった。いいお母さんだ、柿本はそう思った。年のころはいくつぐらいだろう。50歳を少し超えたくらいかな。ともすると、女性の年齢は分かりにくい。それが外国の女性となると、また一層分かりづらくなる。50歳後半かなと思った中国の女性が、実は、43歳であったということなど、いくつかの苦い経験を柿本はしていたのだ。

キエフの町は、歴史のあるきれいな街であった。寺院が多かった。キリスト教はモスクワに到達する前に、ここキエフに心地よい居所を見つけ出した。とにかく、キリスト教の立派な教会があちこちに建っている。それも、歴史を背負った由緒ある教会の数々である。3日間にわたって、マリーヤはキエフの町を細かく案内してくれた。彼女が生地キエフをどれほど愛しているか、その熱のこもった説明から柿本は容易に理解することができた。キエフには、ウクライナの人々の魂がこもっていた。特に、マリーヤのキエフ案内にはポスト冷戦時代に成立した新生ウクライナ国家に対する激しい誇りと愛国心が満ち満ちていた。彼女がこの国の大統領を目指すのは、この国に対する誇りと愛国心からであることが見て取れた。

滞在中、彼女の父親の姿を目にすることはなかった。その理由を尋ねると、父親はアメリカにいるとのことであった。彼女の父親は、原子力関係の技師で、チェルノブイリ原子力発電所でかつて働いていたが、あの大惨事となった爆発事故以後、職を失った。90年代の初め、職を求めてアメリカに渡り、アメリカのテキサス州にある原子力発電所に仕事を見つけ出した。毎月、仕送りをしてくれている。有給休暇をとり、年に一度はウクライナに戻ってくる。技術者であり、科学者である彼女の父は、仕事一筋といったタイプで、極めて謹厳な人物であると、マリーヤは語った。父親のイゴール・レブロフは、曲がったことが嫌いで、厳密な科学のように、人生は正確でなければならないと信じている。

父親とは対照的に、母親のミラ・レブロフは明るく、おおらかで、社交的な女性であった。父親から正しさというもの、すなわち、正義感を、母親からどんな人の心にも入って打ち解けることのできる明るい社交性を受けたマリーヤである。厳格さと開放性という、一見、矛盾するような二つの要素がマリーヤの中では見事に統一されていた。

「マリーヤ、君はすばらしいお父さんとお母さんから生まれたんだね。君の資質のすばらしさがどこから来たか分かったよ。正確で緻密な頭脳と明るい社交性の見事なコンビネーションの由来を理解したよ。」

「そうね。両親に感謝しなくっちゃ。私は本当に、両親に愛されて育てられたと思うわ。父と母は、性格がまったく違うけれど、仲はとってもいいのよ。そういうところも尊敬している理由になっているわ。」

彼女の秀でた個性が政治の世界でどのように開花するのか知らないが、独立広場という場所に案内されたとき、そこで、彼女が熱く語ったことは、ウクライナは確固たるウクライナとして独立を保たなければならないという信念であった。まるで、ウクライナのアイデンティティーを世界に示さんとする熱情から大統領になるのだと言わんばかりであった。すごい女性だと思った。いや、もはや、女性というには強烈過ぎる個性であり、女傑と呼んだほうがよかった。

ウクライナに来て分かったことであるが、柿本は、ドニエプル川(ドニプロ川)の存在感というものを強く感じた。見事な大河である。この川の流域を中心として、ウクライナはその長い歴史を刻んできたのだ。そういう実感がひしひしと押し寄せてきた。エジプトにおけるナイル川、中国における黄河や長江、まさに、そのような存在として、ドニエプル川はウクライナに多大な恵みをもたらしてきたのであろう。マリーヤ・レブロフはドニエプル川のように、ウクライナを象徴する存在となるのであろうか。

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