見出し画像

シェイクスピア参上にて候第七章(三)


第七章 フランスの動向を掴まなければならない

(三)シェイクスピアのフランスへの深い愛

ジェイムズが、ヒューミントで効果的な活動を続ける中、岩倉隆盛さんはフランス国立図書館へ入り浸りでした。

個人としての研究、主としてEUの歴史と現在に関して、研究を行うという目的を告げ、利用許可をいただきました。早稲田大学でフランス革命の研究をしたという経歴を説明し、所持した研究論文を見せると、すぐに、利用許可が出ました。

フランスの国立図書館は七か所の場所に施設を構え、その規模は世界に冠たる大きさを誇っています。中でも、フランソワ・ミッテラン館は一九九四年に完成し、千万冊を超える書籍や資料を収蔵していて、多くの人々が利用のため、足を運んでいます。

岩倉さんは、パリ滞在中、このミッテラン館で様々な書籍や資料を漁りながら、必要なコピーを係員に申し出てコピーしてもらいました。

このような過ごし方を三日間も続けて、手元に積み上げられたコピー総数は三百枚を超えるものになっていました。じっくりと内容に目を通し、EUの今後の方向性についてまとめると話してくれました。

ジェイムズと岩倉さんの対照的な動きを見ながら、わたくしは大学の先輩である北原鴎外さんに、いろいろとパリの案内をいただくこととして、ルノーのタリスマンに乗り込んで、観光スポットや歴史の名所などに出かけました。

まず、わたくしのリクエストに応えるかたちで、北原さんは車をルーヴル美術館へ走らせ、そこで作品の観覧におよそ二時間を過ごしました。

人々が多く立ち止まって鑑賞していた場所は、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」でありましたが、あの「モナ・リザ」の微笑を描き出すために、どれほどダ・ヴィンチは苦労しただろうかと、わたくしはダ・ヴィンチの制作光景に思いを馳せました。

わたくしが、とりわけ、興味を惹かれたのは、古代のエジプトやオリエントの作品群です。どういうわけかエジプトの「死者の書」がわたくしの足を釘付けにしました。

そして、紀元前二五〇〇年頃の作品とされる「代官エビフ・イル像」が、わたくしに何事かを語りかけているような錯覚に捕われました。アムル人(アモリ人)の都市国家であるマリ王国の人物像です。

エビフ・イルの大きな目、太く高い鼻、立派な髭、誇張ではなく、実際に、このような顔立ちであったのだろうと想像するしかありませんでした。

ルーヴル美術館は、先史時代から現代までの作品が三五〇〇〇点も展示されていますから、一日の中の僅か二、三時間をルーヴルで過ごして、どうこうなるような美術館ではありません。

もし、展示品の一つ一つを心行くまで味わいたいと思うならば、一週間は通い続けなければならないでしょう。

セーヌ川に浮かぶシテ島にあるノートル=ダム大聖堂にもまた、わたくしの要請を受けて、北原さんは気持ちよく車を走らせてくれました。

歴史的なゴシック様式の教会であるだけでなく、現在も教会として使用されているという現役もので、礼拝堂は古色蒼然たるものではなく、現役ピカピカでありました。

室内の突き抜けるような天井の高さはゴシックの特徴であり、ライティングの絶妙さが、礼拝堂全体を荘厳かつ優美なものとして、観光客の感動を呼び起こしています。

北原さんは、この日、妻のドミニクに頼まれた所用のため、わたくしをブローニュの森でゆっくり過ごすようにと言って、そこに連れて行きました。

夕方に迎えに来ると言って、わたくしをブローニュの森に残しましたが、明日と明後日の二日間たっぷりと時間をかけて、パリ観光のほうは、責任を持つと胸を張りました。

ブローニュの森に置き去りにされたわたくしは、この雄大な森がどれほど魅力に富んだものであるかを理解しました。北原さんがここにわたくしを連れてきた理由が分かりました。ドミニクが大変好きな場所であるということです。

木々が生い茂り、その中を人々が散策し、また、池があり、ボートが浮かび、広大な芝生には、三々五々、人々が寝そべり、駆け回り、読書をし、食事をするなど、これほど、ゆっくりと時間を過ごすのに適した場所はありません。

わたくしは、いい場所に連れてきてもらったという感謝の気持ちで一杯になりました。池のほとりに置かれたベンチに腰を下ろし、ボートを漕いでいる幸せそうなカップルを見ながら、柔らかい日差しを浴びていると、心地よい眠気が襲ってきました。

こちらの世界にいるのかあちらの世界に行ってしまったのか判然としない状況に陥り、時代も現代ではない騒然としたパリの街のようであり、兎に角、朦朧とした感覚の中にわたくしは陥ってしまいました。

「やあ、パリに来た日本の青年よ、君の関心事に繋がることを少しばかりお伝えしておかなければならないと思い、二百年以上も前の十八世紀の革命前夜の騒々しいパリにお連れ申したが、ちょっと吃驚されましたかな。

自己紹介を遅れたが、わたしはヴォルテールと申す者、歴史書籍のなかでは、啓蒙思想家などと呼んでいるがね。」

「ヴォルテール様でいらっしゃいますか。御名前はよく存じ上げております。わたくしは近松才鶴と申します。わたくしの関心事に繋がることをお伝え下さるという配慮をお持ちのようですが、どういうことでしょうか。」

「近松青年よ、君はシェイクスピアに導かれ、シェイクスピアが脳裏から片時も離れないような人生を送っているね。よく知っているよ。

そこでだ。フランスにおいて、シェイクスピアブームのきっかけを作った人間は誰だか知っているかね。まあ、知らないだろうが、実は、このヴォルテール様の功績が大きいことを、存外、世の人々は知らないようだね。」

「ヴォルテール様がフランスとシェイクスピア様の結び付きを強くされたということですか。どういう背景から、そのような役割を果たされたのでしょうか。」

「説明しよう。わたしは非常に偏屈な性格で、わが人生において、幾多の波乱を経験したのだが、一つの大きな人生の契機となった出来事は、英国へ渡った経験である。

一七二六年から一七二八年まで、英国に滞在する中、ジョン・ロックとアイザック・ニュートンの思想からいろいろと学び、多大な影響を受けた。

フランスに戻って、しばらく経ち、期するところあって、一七三四年に猛烈にシェイクピア作品群を読破し、フランスにはない斬新なものを見出だして歓喜に震え、その後、シェイクスピアの啓蒙に相務めたという次第である。

それまでは、少しばかり、シェイクスピアについて言及する者もいたが、それでシェイクスピア熱がフランスに沸き起こるというようなものではなかった。このヴォルテール様こそがシェイクスピアをフランスに紹介した第一人者と言えよう。」

「そうだったのですか。そのようなことは全く知りませんでした。それで、そちらの世界では、シェイクスピア様にお会いされたりしておられるのですか。」

「いやいや、シェイクスピア様はこのわたしがどうも苦手らしい。わたしも近づこうとするが、うまくかわされてしまう。わたしの性格がお好きでないらしい。

もっとも、シェイクスピア様だけでなく、わたしとの付き合いを、一時は「良し」としていた人々も、大抵、その後、うまくいかなくなり、対立したり、分かれたりする羽目になるということの連続、これがわたしの人生だった。

例えば、ルソーとの関係がそうだったなあ。他人の良い点も見つけるが、悪い点も見つけてしまうので、最初、賛美していても、最後には欠点をあげつらうということを、わたしは平然とやってしまう性質なものだから、いつも波乱が起きる。

近松才鶴とやら、そういう人生を送ってはいけないぞ。理性を掲げ、自由を掲げたわたしの人生はあらゆる束縛を嫌うという点において、あまのじゃくな振る舞いが多く出てしまったことは認める。父親もこのわたしに頭を痛めておった。

しかし、生まれ持った性格というのは簡単に治らないものさ。日本の青年よ、見ると、君は非常に素直な性格のようだ。シェイクスピア様もさぞかし気に入ってくださるタイプだ。

そういう君に願いたいのは、もっとわたしのことを宣伝してくれということだ。シェイクスピアの存在をフランスに知らしめたのはこのヴォルテールであることを知らせてくれ。頼むぞ。」

このことばをヴォルテール様から承っていたとき、何か人の気配を感じて振り向くと、シェイクスピア様が笑いながら立っておられました。

「ヴォルテール様、全てお聞きしておりました。わたしがヴォルテール様を故意に避け、逃げ回っているというような話、面白く聞かせていただきました。

正直に申しまして、それも事実ですが、本当は、心からヴォルテール様に感謝しているのでございます。わたしを大々的にフランスの人々に紹介されたことに対しては、まさにヴォルテール様のご功績でございました。

ただ、その後のフランス文壇において、ややこしい論議のようなものが巻き起こっていたのではないかと御推察いたします。」

「わたしが非常に不愉快に思ったのは、あのルトゥールヌールだ。彼はシェイクスピア全集の翻訳を出した立派な功労を持っている。

だが、ルトゥールヌールが書いた戯曲家に関する本の中で、フランスの劇作家を掲げたところがあるが、そこに、このわたしの名前を、わざとかどうか知らないが、記さずに、外しおった。わたしは怒り狂った。

この私怨のため、わたしは彼のシェイクスピア全集を称えることをせずに、間接的にこき下ろすことを決めた。それが、シェイクスピア様には申し訳のないことをしたと、ここで心からお詫び致しますが、シェイクスピア様の作品を酷評し、罵倒を浴びせるという挙に出たというのが、真相でございます。

今となっては、非常に後悔し、反省の心しきりでありますが、あのときは、ルトゥールヌールに対する怒りと嫉妬で自己を制することができず、結果的に、シェイクスピア様の作品を貶めるという「変節漢」になってしまったのですが、わたしの真情は変わらず、シェイクスピア様への思いは敬愛に満ちたものでございます。」

いやはや、ヴォルテール様とシェイクスピア様の、誰にも分からないような複雑な事情の吐露を見せられたわたくしは、考え込んでしまいました。

こちらの世界でもつれた出来事をもつれたままにしておくと、あちらの世界でももつれたままずっと引きずるのだということが分かり、恐れながら、わたくしを介在させる形で、ヴォルテール様がシェイクスピア様に陳謝と和解の言葉を述べておられる姿を目撃し、その後、お二人が心の底から仲良くなられたのを見届けて、感無量の思いになりました。

結果として、ヴォルテール様とシェイクスピア様のお二人がわたくしに現れて下さったことによって、わたくしはお二人を和解させる役割を演じたことになりますが、これほど喜ばしい心地を味わったことはありません。

何の知識もなかったヴォルテール様との深い絆ができたことは、ブローニュの森がわたくしにくれた大きなプレゼントでした。ここに、北原さんがわたくしを連れてきた理由が分かりました。パリで最も良いところに案内してくれた北原さんに感謝です。

約束の午後五時半の時刻に、北原さんはドミニクを伴って、愛用車のタリスマンで迎えに来てくれました。わたくしは、車の中で自己紹介と共に、ドミニクの第一印象を語りました。

「初めまして。近松才鶴と申します。北原鴎外さんの大学の後輩です。ドミニクさんがパリでブティックを経営されていらっしゃることは、北原さんから聞きましたが、お会い出来て何よりです。

そして、あまりにも爽やかな雰囲気が漂っていらっしゃって、ちょうど、女優のサロメ=デ=マートにお顔もそっくりなので、ほんとにびっくりしました。ああ、すみません。日本語を理解できましたか。」

「大丈夫です。日本語は少しわかります。ありがとうございます。わたしも、サロメ=デ=マートは好きな女優で、みんなから、似ている、似ていると言われます。

夫は、冗談でしょうが、サロメ=デ=マートよりもずっといいなどと言ってくれます。日本の男性は一般的に女性を褒めることが苦手だと聞いたことがありますが、わたしの夫は日本人らしくありませんか。」

「うーん。そうですね。まじめで勤勉で働きずくめという平均的な日本人男性像からすれば、とらわれのないフリースタイルのご主人だと思います。わたくしは自分のことを典型的な日本人だと思っていますので、北原さんを見ると、うらやましく思います。」

「何を、二人で、ぼくのことを巡って、いろいろ話しているんですか。北原鴎外は北原鴎外ですよ。北原鴎外以外の何物でもありません。そんなことより、ドミニクがお薦めのパリのレストランへこれから行きます。美味しいディナーを取りましょう。」

連れていかれたレストランはイタリアン料理でした。ドミニクがフランス料理よりもイタリアン料理が好きなので、「ブオーノ・サーノ・ベッロ」の格別なパスタ、そのドミニクのお薦めのお店でパスタを頂こうというのです。

わたくしはイタリアに行ったとき、坪内さんたちと本場のパスタを食べて、非常においしかったことを思い出しましたが、パリの「ブオーノ・サーノ・ベッロ」のパスタは、ドミニクのお薦め通り、極上の味わいであり、もしかしたらイタリアのものよりも美味しいのではないかと思いたくなるほどでした。

そのことをドミニクに告げると、イタリアよりもここのほうが美味しいと太鼓判を押しました。食事を取りながら、わたくしは北原さんに尋ねました。

「北原さんは、大学でフランス文学を学ばれたとき、どういう内容を研究対象とされたのですか。教えてください。」

「いろいろと勉強したが、ぼくはフランス文学と英文学の比較研究に興味を持っていたので、そういうことをやりました。

そこでいろいろなことが分かったのだが、英文学の最高に位置するシェイクスピアがフランスでどう受容されたかに興味を抱いて、調べたところ、ヴォルテールがシェイクスピアの啓蒙の役を買って出たのはよかったが、彼はのちにシェイクスピア文学を貶すような変節を遂げたので、ヴォルテールとシェイクスピアの結び付きというものがあんまり注目されなくなってしまった。

一般的に、注目されているのはスタンダールの評価だが、彼はシェイクスピアを高く評価していて、ラシーヌとシェイクスピアを比較して、シェイクスピアの斬新性を絶賛している。

ロマン主義作家のミュッセもまた、シェイクスピアに傾倒し、大きな影響を受けていることが知られている。新しいところでは、アンドレ・ジイドだ。

ジイドはシェイクスピアに相当、心酔していたと見られ、ぼくはここに注目して、卒業論文は「ジイドとシェイクスピア」という内容で書いた。まあ、そんなところです。」

わたくしは、北原さんの口から出てくるシェイクスピア、シェイクスピアの言葉に吃驚仰天しながら、北原さんとわたくしは、何と近い距離感のところにいるのだろうと感動を覚えました。

そして、つい先ほどまでブローニュの森で語らい合ったヴォルテール様の名前まで出てくる始末、これには参りました。

北原さんの説明によりますと、スタンダールやミュッセ、ジイドといったフランス文壇のお歴々まで登場し、フランスとシェイクスピア様がどれほど深い関係で結ばれているかが分かりました。

シェイクスピア様はフランスを深く愛しておられる、そういう確信がふつふつと沸き起こり、EUが今後どうなろうと、英仏の関係は簡単に壊れる関係ではないという希望にも似た思いがわたくしの心の中に満ち溢れてきました。

英仏の絆の中心にシェイクスピア様が立っておられるという思いでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?