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絶対王政下の経済政策:コルベール


「重商主義の意味」
 
16~18世紀、ヨーロッパの絶対王制国家が採った経済政策は、一般的に、重商主義(マーカンテリズム、mercantilism)と呼ばれています。
 
特に、成長しつつある世界経済の中で、オランダ・イギリス・フランスで採用された管理経済を意味しており、財政確立のため貿易収支の黒字、輸出の助成・輸入の制限による国内産業の保護などをめざした経済政策とその理論を指して、重商主義という言葉が生まれました。
 
国家の冨の源泉は貨幣の量に基礎づけられるものであると考え、貨幣獲得を経済政策の主眼とします。
 
絶対王政のもとで、官僚や軍隊の給与、宮廷生活の維持などの財源が必要となった国王が、商業を重視して国家統制を加え、あるいは特権的な商人を保護することによって富を得ようとしました。
 
その基盤には、マニュファクチュア生産様式による生産力の向上を前提としながら、オランダ、イギリス、フランスなど、先進的な商工業の発達が見られる地域の国家が、後進地域や植民地を経済的に支配する構造がありました。

ラース・マグヌソンが、『重商主義の経済学』(2017年)で語っているように、重商主義を16-18世紀の近世に出現した一連の言説として捉え,「国力と豊かさとの関係が課題」であったとすれば、経済成長,貿易の展開,運輸と金融の発展,市場経済,独占,国家形成などを背景に形成された重商主義を,もう一度、経済学説史と経済史の両面から考察し、その歴史と理論を解明しなければなりません。
 
近代国家の成立過程にあって、「国力と豊さの関係」を経済活動の中からもう一度捉え直してみるという問題意識を軸にして、重商主義を究明するとき、20世紀、21世紀の経済の中にも重商主義的な要素は何らかの足跡を残しているのかどうか、もし残しているとすれば、それは何かなど、総ざらいしてみる必要があります。
 
「重商主義の諸形態」
 
重商主義には、幾つかの形態があり、歴史的に意味内容が変化してきました。
 
まず、第一に、重金主義が、初期の形態として現われ、金銀の蓄積を国力の中心とする思想を打ち立てます。金銀貨幣の蓄積をはかるため、国内の鉱山の開発に力を傾注し、海外からの金銀の獲得につとめて、その国外流出を抑える政策です。
 
重金主義は16世紀のスペインに典型的に見られました。
 
第二に、貿易差額主義の段階になりますが、輸出を輸入より多くして(出超)、貿易差額によって国家の貨幣収入を増大させようとする形態です。
 
輸出を増加させるためにはそれぞれ特徴のある輸出産業を保護育成する必要が出てきて、次第に産業保護主義に移行します。
 
輸入の抑制には、高関税政策(保護貿易政策)がとられ、産業革命前のイギリスの毛織物業などに典型的に見られますが、フランスの絶対王政のもとでもコルベールによる重商主義政策は貿易差額主義でした。
 
第三に、産業保護主義の形態で、国家の富の源泉としての自国の産業を保護する政策です。国家が自国の産業資本の成長をはかるため、さまざまな保護を加えるやり方であり、後進的な産業革命を展開させた、ドイツや日本で典型的に見られた形態であると言えます。
 
「コルベールの政策:重商主義の典型的な人物」
 
コルベール(Colbert 1619-1683)は、フランス・ブルボン王朝全盛期のルイ14世の絶対王政を支えた財務総監(財務長官、大蔵大臣)で重商主義政策を推進しました。
 
1664年、東インド会社を再建、インド・アメリカ大陸への進出を主導しました。
 
コルベールは、ラシャ商人の息子にすぎませんでしたが、マザラン(Mazarin, 1602~1661)に仕えて頭角を現し、その死後、1662年前任者フーケが国費乱用と収賄の罪で失脚した後の財務長官となりました。
 
コルベールは、典型的な重商主義政策を推し進めたので、その経済政策をコルベール主義とも言いますが、その政策は重商主義の中の貿易差額主義と言えるものでした。
 
コルベールは、謹厳な顔つき、粗末な衣服、その冷たい性格から「北方人」とか「大理石の人」ともよばれました。休息もとらず、快楽も求めず働くこの男はフランスにとって誠に得がたい富をもたらしました。
 
コルベールは輸出を奨励して国内産業を保護する、典型的な重商主義政策を推進し、ブルボン絶対王政の繁栄をもたらしました。
 
具体的には従来の毛織物・絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器・ガラス・レース・陶器などの産業を起こし、国立工場を設立し、特権的なマニュファクチュアを育成します。
 
その一方では労働者の同盟とストライキは禁止されました。
 
海外進出においては、インド、北アメリカ、中米、アフリカなどに植民地を獲得します。北アメリカにはミシシッピ川流域に広大なルイジアナ植民地を開発しました(ミシシッピ川は一時コルベール川といわれた)。
 
中米ではアンティーユ諸島にタバコ、綿、さとうきびの栽培を黒人奴隷によって行いました。
 
またインド経営のために1664年にフランスインド会社を創始します。同年、アメリカ新大陸との貿易を専門とする特許会社としてフランス西インド会社も設立しています。

コルベールの重商主義政策によって得られたフランスの富はヴェルサイユ宮殿の建造などに充てられ、ルイ14世の栄華をもたらしましが、ルイ14世の宮廷生活と対外戦争に費やされていきます。
 
コルベールの死後、ルイ14世はファルツ戦争やスペイン継承戦争へと進み、フランスの産業は停滞の時期を迎え、勢いを失っていきます。
 
「重商主義に対する批判」
 
イギリスのアダム=スミスやリカードは、産業保護主義に走る重商主義は、経済総体の発展を阻害すると批判して自由貿易主義を主張しますが、それに対して、ドイツの経済学者リスト(1789~1846)は、保護関税制の導入、中農保護政策、国内鉄道網の整備など産業保護主義を主張しました。
 
重商主義に対する批判は18世紀の後半、フランスのケネーの重農主義や、イギリスのアダム=スミスの『諸国民の富』による自由放任主義の主張として現れます。
 
19世紀の資本主義の全面展開の時期になると、重商主義的な保護貿易主義は自由な競争による経済の発展を阻害するとして否定されるようになります。
 
自由貿易主義に時代が傾く中で、各国はそれぞれの時代と経済状況から、この両面を揺れ動くことになります。

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