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シェイクスピア参上にて候・第一章(ニ)


第一章 シェイクスピア登場

(二)わが社に舞い込んできた相談

一週間で退院し、わたくしは、シティに聳え立つ巨大ビルの中の一角にある勤務先のデスクに腰を下ろし、パソコンを見ていると、イギリス人のベアトリス・テイラーさんが声をかけてきました。

「近松さん、大変でしたね。もう、大丈夫ですか。追突してきた車のドライバー、ほんとに悪い人ね。麻薬を吸って運転していたのよ。」

「ロンドンで交通事故に遭うとは思いませんでした。お陰で、一週間の入院を体験できて、とても有益でした。いろいろと自分のことが分かってきました。」

「入院したことが、有益だとおっしゃるんですか。自分のことが分かってきたなんて、哲学的な自己省察を、入院中に深刻になさったのかしら。近松さんは面白い方ですね。そうそう、鶴屋さんが昨日からエディンバラへ出掛けていますので、そのことをあなたに伝えてほしいと言っておりました。」

「エディンバラはどんな用事かな。前から、北海油田がどうのこうのと言っていたから、その関係者に会うということですか。」

「おそらく、そうですわ。一九六〇年、北海油田の発掘から、スコットランドは経済的に恩恵を受け、もっと恩恵があってもよいのに、北海油田の収益がイギリス(=イングランド)に奪われているといった複雑な気持ちを持つようになりました。

そこから、イングランドとスコットランドの歴史的な葛藤が再燃するようになり、スコットランドでは、イングランドからの独立、政治的な自立を求めるという動きが起きました。

特に、トニー・ブレアはスコットランド出身であったので、スコットランドの政治的自立を助けるような政策を遂行し、それによって北海油田を巡るスコットランドとイングランドの利益分配のそれぞれの思惑が、以前にも増して、ぶつかるようになっています。」

「ややこしいですね。日本は、明治維新以降、版籍奉還、廃藩置県の政策を断行し、北海道から九州、沖縄に至るまで、一応、明治新政府のもとにまとまりました。北海道と九州が、何かの利権で対立するとか、北海道が、あるいは九州が中央政府から政治的独立、自立を求める動きを起こすとか、そのようなことはまずありませんでした。

こちらは違うのですね。歴史的にも、イングランド、スコットランドの対立は、根の深いものがありますね。別々の国のようです。」

「悲しいことですが、おっしゃる通りです。イギリスに限らず、ヨーロッパの歴史は複雑です。

わたしの場合、父がイギリスの伝統的で、典型的な、どこにでもあるテイラーという姓の一家で、イギリス人そのものですが、母は、オーストリア人で、ブリュンヒルデ・アイヒンガーという名前です。聞いたこともないような名前でしょう。狭いヨーロッパの中で、各国は対立と戦争を繰り返しながらも、どんどんと混血していったのです。」

「イギリスに来て、わずか四か月余りのわたくしですが、もっといろいろ勉強してヨーロッパを知らなければなりません。

日本の総合商社は、日本独特のシステムを持った会社と言えますが、主として、資源などの輸出入業務を中心としたものから、金融関係、投資関係に至るまで、多種多様な仕事を手掛けてきました。

そんな中、わが社はベアトリスさんも御存じのように、世界の様々な情報、資源情報は勿論、企業情報、金融情報、投資情報、政治情報、軍事情報、社会情報、芸術文化情報にいたるまで、情報という情報を収集分析する部門に重きを置いて、盤石な経営戦略と緻密な情報戦略の強固な融合から導きだされたビジョンを中心として、より効果的で収益性の高い、夢のある未来創造型のビジネスを切り開いていこうという姿勢を強く打ち出しています。」

「イギリスは、情報という問題に関しては、非常に敏感な国です。近松さんも知っていらっしゃるかもしれませんが、MI5(エム・アイ・ファイブ)などの情報機関があり、国家の存亡は情報にありと言わんばかりのお国柄です。

企業経営も情報に疎いと、やられてしまう時代ですね。競合する会社が世界に広がっていて、とても大変です。兵器こそ使いませんが、企業世界は一種の戦争と言ってもよい過酷な世界です。情報戦争という言葉のとおり、情報が武器となっています。」

「まさにそうですね。第二次世界大戦において、イギリスがドイツに勝ったのも、ドイツの暗号システム「エニグマ」を解明できたからです。ですから、情報の収集と分析はどんな分野でも絶対に欠かせないものになってきています。」

「アラン・チューリングのお陰ね。彼の「エニグマ」解明がなかったら、イギリスがドイツに勝っていたかどうか分からないわ。」

こんな会話をやり取りしていたとき、六年前からロンドンに赴任し、活躍している岩倉隆盛さんがわたくしのデスクへ近づいてきたので、二人の会話は遮られました。

「お二人のお話し中のところをすみません。ちょっといいですか。少しばかり、近松さんとお話したいことがあるのですが。」

岩倉さんのこの言葉を聞いて、ベアトリスは静かに自分のデスクへ戻っていきました。

「実は、鶴矢さんがエディンバラへ行かれた理由ですが、北海油田のことではなく、海底に沈んでいる沈没船の引き揚げに関する相談に乗ってくれないかということで、エディンバラのある会社からの連絡を受けたということです。

どうして、わが社に、沈没船引き揚げなどという仕事の相談を持ち掛けてきたのかわかりませんが、とにかく行ってくると言って出掛けられました。」

「沈没船の引き揚げ?それは、ちょっと面白い話ですね。強烈なロマンを感じるなあ。わたくしはそういう話が大好きなんですよ。ミステリーを含んだ出来事、事件などには完全に嵌ってしまうタイプです。」

「巨大な財宝を積んで海の中に消えた沈没船の話は、いろいろとあります。ヨーロッパでは、特に、大航海時代と言いますか、そのような時代から、植民地争奪の激しさが増して、18、19世紀のころには、スペイン、ポルトガル、フランス、イギリス、オランダなど、大西洋を挟んで、ヨーロッパと南北アメリカの両大陸を往来するヨーロッパ列強の国々の船が、お互いに相手方の船を襲撃して財宝を奪い取るとか、また、嵐に見舞われて、財宝を満載したまま、何百人という船員たちが海の藻屑となって、沈没船も財宝もどこへいってしまったか、いまだに分からないといったことがあるそうです。」

「うーん。すごい話ですね。そんな沈没船がどこかで見つかったということですか。そしてその引き揚げをわが社に依頼という・・・。」

「分かりません。連絡してきた会社が、サルベージ(引き揚げ)専門の会社なのか、何なのか、あるいは海底油田の掘削の折、たまたま、沈没船を探し当てたという話で、この話自体が石油会社の持っている案件なのか、わかりません。」

「鶴矢さんがエディンバラから戻ってきてからのお楽しみというところか。それからゆっくりと詳しく聞かせてもらうしかないですね。」

岩倉さんの情報によって、鶴矢さんが北海油田のことでエディンバラに行ったのではないことが分かりました。沈没船の引き揚げといった、思ってもみないような話で、こんなことにまで、商社は首を突っ込まないといけないのかという疑問がよぎりましたが、それもなかなか楽しいことではないかと思いつつ、世の中の人々がときどき言う「商社というのは何をやっているのかよくわからない」という話は、商社の中にいても、このような話が、突然、飛び込んでくるくらいですから、正直、商社マンも商社が一体、何なのか分からない状態に陥ることがあるのだと申し上げておきたいと思います。

極端な、やや乱暴な言い方をすれば、お金になるような話があれば、何でも取り組んでいこうという、がめつい、いや、フレクシブルな側面がないわけではないということです。もちろん、そこには企業倫理、社会貢献といった一定の良識の枠があり、世の非難を浴びるようなことは避けなければならないという経営陣の健全な認識のコンセンサスは勿論あるでしょう。

エディンバラに三日間の滞在を済ませて、鶴矢軟睦先輩はロンドンに戻ってきました。早速、ミーティングルームにわたくしと岩倉隆盛さんを呼んで、エディンバラで聞いた話を細かくしてくれました。

「やあ、才鶴ちゃん、退院できてよかったね。岩倉君、ちょっと興奮する話だったよ。北海油田に関する話ではなく、何と、沈没船の話だったんだが、石油会社が持っている案件ではない。

これは、ブロデリック・マッコーリーというスコットランド人の経営するサルベージ会社の案件で、エディンバラからさらに北の方にあるインヴァネスの街、そこから北東のノルウェーの方角へしばらく行った北海の海底に沈んでいる帆船の引き揚げだ。それを検討しているということで、いろいろと相談を持ち掛けられた。」

鶴矢先輩がわたくしを呼ぶときには、いつも、「才鶴ちゃん」の親しみのある呼称です。才鶴ちゃんと言われると、心が和みます。わたくしは聞きたいことがいくつもありましたが、取り敢えず、なぜ沈没したのか、また、いつごろ沈没したのかを聞いてみようと思いました。わくわくするようなミステリー小説に接する興奮を抱いて聞きました。

「鶴矢先輩、どうして沈んだのでしょうか。海賊どうしの海戦でもあったのでしょうか。それとも国家間の戦争でしょうか。いつ頃の話でしょうか。」

「おそらくは、十八世紀頃の帆船だというのだが、海戦で沈んだのか、嵐とか暴風雨で沈んだのか、まだよく分からないと言うんだ。歴史上の記録で何か手掛かりが掴めるかどうかいろいろ調べているが、今のところ、どうもはっきり分からない。

海底に堆積した泥の中に帆船は埋まっていたというので、今まで発見できなかったが、帆船のマストがわずかに五十センチほど海底面に突き出していたのを見つけて、その突き出たマストのまわりの泥を除去していくと、驚くなかれ、沈んだ帆船がほぼ丸ごとその形状をあらわし、三本マストを備えた帆船であることが分かった。

船体の長さがおよそ五〇メートルはある。特徴から判断すると、どうも十八世紀初め頃から中頃までに造られた帆船で、十七世紀まで遡ることはないだろうと、断定的な口調でマッコーリーさんは語っていたよ。」

真剣に聞き入っていた岩倉隆盛さんが、わたくしが聞きたいと思っていたまさにそのことを、質問してくれました。

「鶴矢さん、国籍は、イギリスの船ですか。それとも、イギリス以外の帆船ですか。場所から言って、当然、イギリスの船でしょうね。」

「いや、それが判然としない。どこの国というのが特定できない。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、今のところ、国籍不明の帆船というしかない。

いろいろと、あちこちの海で、掠奪を繰り返して、金銀財宝を積み込んだ船であるという可能性が非常に高い。わざと、国籍を明示していないヤバい海賊帆船であった可能性がある。

と言うのは、沈没船は相当の財宝を積み込んでいることが分かったからだ。マッコーリーさんが引き揚げを本気で検討することになったのも、財宝の多さのゆえだ。現在の金額にしておよそどのくらいの財宝なのか、詳しいことは話してくれなかったが、半端な額ではないと思う。」

わたくしは、沈没船引き上げの相談をわが社に持ち掛けてきた理由がどうしても聞きたかったので、この質問こそが核心的なものだと言わんばかりの真剣な表情で、鶴矢先輩を見つめ、問い詰めるように言いました。

「マッコーリーさんが引き揚げを検討するに至った気持ちは、誰にも明らかにしたくないような財宝の大きさを考えれば分かります。しかし、なぜ、わが社に引き揚げの相談をしてくるのでしょうか。また、その相談の具体的な内容は一体どういうものですか。」

「まさに、そこなんだ。海洋国家イギリスの力をもってすれば、北海あたりの帆船引き上げなど、朝飯前だと思いたいが、どうもそうはいかない様子が感じられたので、そこのところを直接ぶつけてみたんだ。なぜ、日本の商社に相談を持ち掛けるのかとね。すると、いろいろなことを打ち明けてきた。

以前、別の沈没船引き揚げ作業のことで、ロンドンの金融会社と資金面の契約を交わし、引き揚げの仕事は無事に終了したんだが、沈没船の財宝が予想以上に多かったのを見て、態度を豹変させ、当初の契約とは違う条件をいろいろ突き付けてきた。

そのことが、余程、悔しかったのか、トラウマとして残ったらしく、マッコーリーさんは日本の商社に話を持ち込むことにしたということらしい。もう一つ、マッコーリーさんの娘のメアリーさんが日本人男性と結婚し、東京で幸せに暮らしており、孫娘の顔を見るために、ときどき、マッコーリーさんは東京へ行くのだという。

まあ、親日的ということかな。しかし、何よりも、日本の技術に惚れ込んでいるところがある。日本は、信頼できる誠実な国であると言うんだ。」

岩倉さんは嬉しそうな顔で言いました。

「そういう話は正直、うれしいですね。わたしも聞きたいと思った近松さんの先ほどの質問ですが、マッコーリーさんの相談は具体的にどんな内容だったのでしょうか。」

「わが社には、資材調達部門や金融部門もあり、造船部門も関連企業に持っている。もちろん、いろいろと投資事業も行っている。そして、何より、伝統的に、海運関連の事業に強いという特徴がある。親日家であるマッコーリーさんは、こういうことをつぶさに調べ、わが社のことをよく知っているんだ。具体的な内容はこれから一つ一つ決めていきたいと言っている。」

わたくしは、鶴矢軟睦先輩が報告してくれたことを心に刻みました。そして、マッコーリーさんとの話を今後どのように進めていくのだろうかと思い、東京の本社に連絡を取って、沈没船引き揚げの仕事をわが商社の仕事として受諾することになるのかどうか、それとも別な判断が下されるのか、細かく慎重な詰めをして、結論が出されるのだろうと思いました。

三人がミーティングを済ませ、それぞれデスクへ戻ったとき、ベアトリスさんが再びわたくしのところへやって来て、言いました。

「やっぱり、北海油田のことでしょう。」

「いいえ、沈没船引き揚げのことでした。」

「まあ、沈没船の引き揚げとは驚きね。引き揚げの協力をお願いされたというわけですね。資金面のお願いかしら。それとも技術的な面の作業上のことかしら。」

「具体的なことはこれからだそうです。資金面のことも技術協力的なこともいろいろとあるとは思いますが、東京本社とも連絡を取って、検討が進むと思います。」

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