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 高校の裏門をくぐって、住宅の立ち並ぶ角を右に一回、左に一回曲がる。
 待ち合わせ場所の駐車場の前には、すでに知樹(ともき)くんの姿があった。彼は緑色に塗られたフェンスに背中を預け、右手で文庫本を開いている。その手に白い包帯が巻かれているのを見て、心臓が縮こまるような感覚をおぼえた。
 今日、昼休憩の時に、知樹くんと同じクラスにいる友だちから変な噂を聞いた。
 今朝、クラスメイトの一人が顔に派手な傷を作って登校してきた。目の周りに痣ができて唇の端が切れていたことから、誰かに殴られたということは一目瞭然だったという。大怪我をしているわけでもないし、ただの喧嘩ならそう珍しいことでもないのだけれど、本人がだんまりを決め込むものだから、みんな気になって仕方なかったと。
 そんな時に、知樹くんが右手に包帯を巻いて現れたものだから、みんな「あいつがやったんじゃないか」ということになった。友だち曰く、クラスメイトから見た彼は『何を考えているのかよくわからない存在』であり、面白半分でそんなことを訊ねられるタイプの人間ではないらしい。それで、結局何があったのかわからないまま今日が終わってしまったのだと。
「お待たせ」
 数歩離れた位置から横顔に声をかけた。
 彼は、ああ、と顔を上げて、開いていたページにしおりを落とし込んだ。閉じた本を通学バッグの中に仕舞いながら、こちらに近付いてくる。
 私の鞄を奪うように取り上げると、そのまま黙って家へと続く道を歩き始めた。その背中を、私は黙って追いかけた。
 白いカッターシャツが汗で濡れて、中に着た黒いタンクトップが透けて見えている。
 知樹と付き合い始めて一カ月になるけれど、彼のことはまだわからないことだらけだ。告白をしてOKをもらったから付き合い始めたけれど、彼の方から好きだと言われたことは一度もないし、手だって繋いでもらったことがない。それでも、毎日私を家に送り届けるために、彼は放課後この場所に来てくれる。
「なんか今日、口数少ないね。どうかした?」
 彼が肩越しにこちらをふり返った。
「そうかな。知樹くんの方は、何かおもしろいことあった?」
 別に、と即答したきり、彼はまた正面を向いて黙り込んでしまった。
 小学校の横を通り過ぎて、片側二車線の大通りに出た。赤信号だったので、横断歩道の前で足を止めて彼の隣に並んだ。
 信号を渡った先に、総合病院が建っているのが見える。薄茶色の煉瓦でできた門の表には、病院名を彫り込んだ銀色のプレートがはめ込まれている。それが太陽の光を反射してまぶしかった。
 信号が変わり、二人同時に横断歩道を渡り始める。私はまた彼の一歩後ろをついていく。向かい側から小学生たちが勢いよく自転車を漕いでくる。その中の一人が知樹くんの鞄に軽く身体をぶつけた。彼の舌打ちが耳元で響く。湧き起こった不安を静めてくれるものを求めて、私は意味もなく自分の髪に手を触れた。

 いつも右に折れるコンビニの角を逆方向に曲がって一分ほど歩き進めたところで、自分の家に向かう道筋からそれていることに気がついた。
「あの、これ、道が違う」  
 足を止めて、彼の制服の袖を引っ張った。
 知樹くんは、立ち止まり、何でもないような顔で「合ってるよ。もうすぐ俺んちだから」と答えた。
 俺んち、という言葉の響きに頭がくらくらした。いったい何が起こっているのか、脳の処理が追いつかない。
「ほら、あれ」
 彼が指差した先には三、四軒の小綺麗な家と二階建てのハイツが見えた。
 どれのことを言っているのだろう、と考えているうちに、ハイツの前に辿りついた。彼はさっさと階段を上り始める。事態が飲み込めないまま、私も白いペンキを塗られた鉄階段に足をかけた。
 階段を上り終えた彼は、そのまま一番奥の部屋まで進んでいった。私もすぐ後ろに続く。
 彼が、ズボンの後ろポケットからキーホールダーも何もついていない銀色の鍵を取り出した。扉の鍵穴に差し込み、無機質な音を立てて回す。心の準備ができないまま、扉が開いてしまった。
 
 彼の部屋の床にお尻をついて座り込み、太腿の隙間にプリーツスカートの余った布を垂らした。
 奥の壁に小さめの窓があって、そこから少し風が入ってくるものの、部屋の中は蒸し暑い。
 知樹くんの方は、私の正面にあるベッドの上に片膝を立てて腰かけ、包帯を巻いている方の手でうちわを扇いでいる。部屋に入った直後に、「暑い」と言ってシャツのボタンを三つも外してしまったから、胸元がはだけてくぼみの深い鎖骨が剥き出しになっていた。
 今、この家には、私たち二人の他は誰もいない。彼は一人っ子で、父親も母親もフルタイムで会社員勤めをしていて夜まで帰ってこないらしい。
 そのことを意識すると、首筋や背中の肌の表面に微かな電流が走った。
「そんな端っこにいないで、こっちに来たら?」
 知樹くんがふいにそんなことを言った。
「へっ?」と、声が上ずった。
「いや、そっちの方が話しやすいならそれでいいけど」
 気だるげな目で見つめられて、何も言い返せなくなる。
「で、何を躊躇ってるの?」
「え?」 
「俺に言いたいことがあるんでしょ」
 なんで、と言いかけて思わず手で自分の口をふさいだ。
「隠さなくていいよ。様子を見てたら何となくわかるし。それで、何?」
 声音は優しいけれど、有無を言わさぬ口調だった。
 飲み込んだ唾が、喉の奥に絡みつく。唇を開く瞬間、口の中で唾液の糸が引くのがわかった。
「えっと、今日、知樹くんと同じクラスの友だちから聞いたんだけど、顔に怪我をして登校してきた生徒がいたって」
 表情の変化を見逃すまいと、彼の顔に視線を固定したままとりあえずそこまで言い切った。喉の奥が絞られたみたいに、声が出しにくい。
「ああ、もしかしてこれ?」
 うちわを持った手を私の方に差し出す。
「まあ、うん。私は絶対に違うって思ったんだけど、友だちが」
 落ち着いて話したいのに、早口になってしまう。
「俺じゃないよ。これは昨日チャーハンを作ってる時にフライパンで火傷したんだ」
 手を元に戻して、うちわで胸元に風を送りながら、彼は軽く微笑んだ。
「何だ、そうだったんだ」
 安堵感で全身から力が抜けていく。いつのまにか喉の強張りも引いていた。
 傷は大丈夫なのかと訊ねようとしたところで、彼がまた口を開いた。
「俺、殴りたい時は自分の痛みの感度超えて殴っちゃうから。こっちもこんなもんじゃ済まないし、相手だってあの程度の怪我では済まないよ」
 さわり、と全身の産毛が逆立つ。
「やったこと、あるの?」
 彼の目が、眼鏡の奥で鋭く細められた。
「知りたい? 話してもいいけど、聞いてから後悔しても知らないよ」
 彼の声が、ガラス越しのようにくぐもって耳に響いた。
 窓から吹き込んできた生ぬるい風が、私たち二人を取り囲む。顔の、首筋の、腕の、脚の、露出している部分すべての皮ふが息苦しくなる。
 私の額を、一粒の汗が伝い落ちた。

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