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感情をアートに

 以前、友だちが言っていた「デザインじゃなくてアートがしたい」っていう言葉に実はめっちゃざわざわして、別の友だちの「アートな文章だねって言われる」っていう発言にもざわざわしてて、私にそれができるかどうかはさておき、「私もそっちやりたい!」っていう気持ちが強くなってきている。

 伝わりやすい文章を書く技術を持っているから、私はそっちをやらないとって思ってたけど、本当に今やりたいのって感覚のままに言葉を編んでいくことなわけで。
 抑制することを手放したい。たしか数ヶ月前にも、獣化したいとかコントロール不能な私であえりあいとか、そういうフレーズを出してたな。

 忘れても忘れても浮かんでくるってことは、それはもう本能的な欲求だと思うの。避けられることではないと思うの。だったら無駄な抵抗はやめて従ってしまえ。

 綺麗にまとまったものを書ける人なんて、商業作家の中に山ほどいるのだから、個人としてやっていきたい私があえてそれをやる必要はないのでは? っていう気持ちもある。

 脈絡すら捨ててしまったら、そこにはただ感情だけが存在することになるのだろうか。
 感情そのものをアートとして世に出してしまうというのはどうだろう。
 人々が隠そうとしているものをさらすことで、見るものの心に爪痕を残すというか。

 最近、ツイッターで感情を垂れ流しにしているのは、そういう試みのひとつだったりもする。私自身が感情剥き出しで生きている姿が誰かにとっての価値になったらおもしろいなって。

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