恥の文化と言語 【ドイツ紀行 Part 3.5】

短い東京滞在を終え、仙台へ向かう新幹線の中でドイツ紀行 Part 4 を書こうとしていた。しかし車内でのちょっとした出来事がドイツでの経験を想起させたので、中途半端な数字になるが Part 3.5 としてそれを書き残しておこうと思う。

新幹線が発車して間もなく、車内販売のカートが僕の横を通り過ぎようとしていた。驚くべきことに僕が乗っている車両の中はほとんどが外国人観光客で、そのうちの一人が添乗員にお水は無料で貰えるかと英語で聞いていた。カートを押す小柄な女性は英語が堪能ではなさそうで、コミュニケーションに困っていた。ロンドンでの生活にも慣れて多少は英語が使えるようになった僕は颯爽と通訳を買って出た。その観光客は新幹線のチケットに無料のお水がついてくるみたいなことを友達から聞いたと言っていたので添乗員の方に確認したが、そのようなサービスはないということだった。少しやりとりをした後、観光客は水とお茶を購入して席についた。無事車内販売員としての責務を果たした彼女は僕に3回くらい頭を下げてお礼を言ってくれた。マスク越しでもわかる眩しい笑顔に僕は心を惹かれ...などという事実はなく、むしろ僕は彼女の申し訳なさそうな態度に少し驚いた。記憶が正しければかつてルースベネディクトは著書「菊と刀」の中でアメリカと日本の文化をそれぞれ「罪の文化」と「恥の文化」と表したが、彼女の仕草や声色から僕はまさに「恥の文化」を感じた。外国語がわからないことなど全く不思議なことではないし責められるべきことでもないはずだが、表面的な概念としての「グローバル化」が蔓延る日本では英語が使えないことはときに「恥」になるのだろう。もちろん旅行ビジネスとの相性を考えれば英語での接客はできたほうがいいのかもしれないが、日本は英語が伝わりにくいということでそれなりに有名だと思うので、わざわざ旅行に来るのであれば観光客側も多少は努力するべきだ。明らかに伝わっていなくて困っているのに英語でゴリ押すのは傲慢である。自身がスマートさに欠けるのであれば、お手持ちのスマートなフォンを駆使すればよろしい。

ここで僕は全く別のカートを押す女性のことを思い出していた。つい先日、僕はドイツの都心部から少し離れたバス停でキャリーカートを押す腰の曲がった老婦人に道を聞いた。英語で話しかけた瞬間にものすごく嫌そうな顔をしてドイツ語で捲し立てられたことを鮮明に覚えている。ドイツ語の心得がないため彼女が何を言っていたのかは全くわからないのだが、少なくとも友好的ではないように思われた。どうやら一通り話し終えたらしいのでごめんねありがとう的なことを言って僕は勘でバスに乗った。申し訳ないので次来るときまでに多少はドイツ語も勉強しておいたほうがいいのだろうかとぼんやり考えながらバスに揺られたことを思い出した。車内販売に苦戦する添乗員の後ろ姿を見ながら、これもまたある種の「恥の文化」なのだろうと考えた。

ルースベネディクトの研究はやや古いため、現代の視座から評価すれば必ずしもニュートラルで信憑性のある研究だとは言えないだろう。しかし、新幹線の添乗員とドイツのバス停での経験を思い返すと、「恥の文化」という表現は言い得て妙だと納得してしまう。

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