長野へ

 障害のアルなしにかかわらず個性として関わってくれた幼稚園は当たり前であるが2年間のみ。小学校に上がる年齢になり、やんわりと普通学級に行くことを抵抗された。あくまで健常児と同じクラスにと希望したら市の方から幼稚園に娘の様子を見学に来られた。おばあちゃん先生は、「ほかの子供と同じようにというけれど、すべて同じにする必要があるのか?この子はそれ以上でもそれ以下でもありません。その子なんです。」と言ってくれたのだが、入学式の日にさっそく担任の先生がクラスのこどもや父兄のいるところで娘の事を紹介した。

 先生としては解ってもらおうとしたのかもしれないが反対に「どうしてこんな子が普通学級にいるの?」という親御さんの声も聞こえるし、子どもも、私に面と向かって「どうして馬鹿なの?」と自然と質問してきた。このような雰囲気の中、これからの学校生活を思うと今までのようにはいかないし、主人も国家公務員ということで日本国中転勤がつきものだった。娘が生まれて産院にいるときに出向が決まり筑波に単身赴任もしたくらいだ。2,3年でまた娘をつれて転校するという生活を繰り返すであろうと予想されるので幼稚園の時のようにはいかないことも解っていた。

 娘のことがきっかけというよりも、結婚した当時から、主人は仕事にあまり喜びを感じていなかった。公募ガイドで実際に応募したり京都まで出向いて住むところを探したこともあった。娘が生まれ、私もこの転勤生活が良い状態とはとても思えない。どこか小さな村で小山台幼稚園のような区別なく通える小学校ってないのかという憧れを持つようになった。これが間違った選択であったとその時は解らなかった。このnotoのさいしょにかいた通りである。主人が長野県野辺山天文台に就職できたことはラッキーという言葉以外の何物でもない。国家公務員の時は事務官だったのに天文台では一応技官となった。天文台所長が幾度か本省に足を運んでくれ、省庁間移動という普通ありえない方法で人口1300人ほどの村に引っ越してきたのは娘が小学1年生の夏だった。此処から5年間は我が家にとって苦しみの経験の連続だと言える。今はそれらを乗り越えての今だから全体としては良かったんだけどね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?