【掌編】水没ブリヂストン

自転車を買った。2台買った。
私の通勤用と、娘の通学用。
3年前にも揃いで2台買ったのだけれど、
すぐに錆びついたりパンクしたりチェーンが外れたりだった。

以前の購入は量販店で、もう行きたくなかった。
すると知人から、近所の小さな自転車屋を教えられた。
昭和の頃からの個人店だが、そこで買った自転車は15年間も現役だという。

冬の終わりに、娘と店を訪れた。
壁のペンキの褪せた平屋の店頭に、数台の自転車が置かれていた。
<SALE!>の札の値段は、どれも量販店より高かった。

重いガラス戸を押して入ると、思いがけなく奥行きのある店内には、
シティサイクル、ママチャリ、ロードバイク、電動アシスト車、
さまざまな自転車がぎっしり並び、どれもぴかぴかに輝いていた。
よく手入れのゆきとどいた、競走馬の厩舎のようだった。

デニム生地のエプロンをつけた男性がひっそりあらわれて、
「いらっしゃいませ」と、もごもご言った。店主だった。
エプロンもズボンも手のひらも、油で黒ずんでいた。
おかっぱに近い髪には白いものが目立ち、銀縁眼鏡のツルは曲がっていた。
猫背をのばしても、172cmの私より170cmの娘より身長が低そうだった。

「あの、とにかく丈夫なのがほしいんですけど」
店主は顔をあげた。乱杭歯の口をひらいた。
「じゃあ、ブリヂストンです。
 たとえ川に沈んでも、ブリヂストンだけは錆びません。」

そのあと十数分、もごもご語られるブリヂストン製自転車の話を聞いた。
材質、設計、組立、いかに綿密に誠実に作られている自転車なのかを。
私は緑のブリヂストン、娘は青のブリヂストンに決めた。
ゆるやかな曲線のハンドル、放射線状にひろがるスポーク、
部品のひとつひとつが剛健で美しかった。         
量販店の5倍以上の値だったが、迷わなかった。

店主はキーホルダーをおまけにくれた。
栗の実ほどの大きさのハート形だった。
私は緑のハート、娘は青のハート。

「ブリヂストンは川に沈んでも、何年経っても錆びません。」
手書きの領収証を切りながら、店主はもう一度言った。

あれから毎日、私と娘はブリヂストンに乗っている。
乗り心地はとてもよい。ペダルを踏みこむたびにぐいぐい進む。
私の住む町には中程度の河川があり、毎朝毎夕、ブリヂストンで橋を渡る。
水の流れは鈍く、濁って淀み、清らかとはいいがたい川だ。

ときどき、思う。
このまま私とブリヂストンが橋から落ちても、
泥と泡と藻に満ちた川の底で、
ハンドルもスポークもペダルも錆びないまま、
ブリヂストンだけは、そこにある。

川底にとどく細い陽の光を返してきらめく、
私の緑の、ブリヂストン。
何か月も何年も、
ともに沈んだ私の身体が朽ちても。

キーホルダーの鈴が、小さく鳴る。


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