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うつろう人の心に想う

色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける

人の心というのは実に移ろいやすいもので、それは私たち自信が一番よく知っていることだと思う。たとえば、小さいころに好きだったアンパンマンとかドラえもんとか、プリキュアとか。
もちろん、大人になった今でもアンパンマンやドラえもんやプリキュアを見ている人はいるだろうけれど、でもそういう人たちはどちらかといえばマイノリティだと思うし、そういう人たちにもアンパンマンやドラえもんやプリキュアに対しての興味が全く無くなっていたときもあると思うんだ。
だから、本当に人の心というのはうつろいやすいもので、そのことは大昔から知られていた。紀貫之は「桜花 とく散りぬとも おもほへず 人の心ぞ 風も吹きあへず」と歌ったし、小野小町は「色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける」と詠んだ。どちらもうつろいやすい人の心を嘆いた歌だ。

飽きたくないという気持ちと、飽きてしまう現実


心では「飽きたくない!」って強く想っていても、一歩後ろから冷静に見てみると飽きてきてしまっている自分が可視化できたりすることがあるよね。
前より趣味に打ち込めていない自分に気がついて、自己嫌悪して、自分に落胆して、そうしているうちに本当に飽きてしまうことも多々あると思う。
でも、飽きることは普通のことなんだよね。
だって、人が物事に対して「飽きる」という特性を持たなければ内閣総理大臣は永遠に死ぬまで同じ人がやるだろうし、かつての人気漫画の人気が衰えるなんてことは絶対にありえないだろうし。
だから、飽きるという心の動きはとても普遍的なことなんだ。
実際、この文章を書いている私だってハヤテのごとく!や幼女戦記、ヴァイオレット・エヴァーガーデンに対する熱量は以前の十分の一も無いだろうしね。だから人間だれしも飽きるもの。今あなたが熱量を向けている対象が何かはわからないけれど、でも今熱量を向けている対象はあなたが産まれてからずっとその熱量を向けていた対象ではないでしょう?だから、私たちは飽きるの積み重ねで生きて、成長しているとも言える気がする。だから、本当に飽きるというのは当然のことで、全く恥ずべきことではないんだよね。きっと。

とはいっても

とはいっても、やっぱり「飽きてしまうのが怖い」という感情は強いと思う。好きなものが好きでなくなってしまう恐怖。わかりにくい人は恋人が自分に飽きてしまったら……という恐怖に例えると少しわかるかもしれない。飽きるということは普遍的なことだけれど、でもやっぱり人間は「飽きてしまうのが怖い」んだ。
でもさ。絶対飽きずに「そのこと」が好きでい続ける物好きはいるわけで。「そのこと」に飽きてしまうのが怖い人はそういう物好きと繋がりを保っておくと良いんじゃないかなって思う。そうしたらフラッと「そのこと」についての興味が復活したときに自分にとっての「そのこと」の空白になってしまったことの補完がとても楽になるしね。

まあ、何はともかく。たとえ飽きてしまったとしても好きだったときの記憶は消えないし、その好きだったときの記憶を意図的に忘れようとせずに心の中に抱いていてくれるなら、あなたの好きだったものは嬉しく思ってくれるじゃないかなって、私は思うよ。たとえその好きだった記憶がセピア色になって薄れていったとしても、いつかきっと湧き水のように溢れてくるだろうからね。


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