見出し画像

竹のパレット

*ミムコ「窓灯りのパレット」を読んだ。それは遠い昔に飛ばした。

1960年代、アメリカは空前の黄金時代を過ごし、若者は溢れるような文化を享受していた。日本では、大学のキャンパスが荒れていた。立て看が至る所に立てられていた。立て看を横目に講義室へ急ぐ。多くの履修者がいるはずなのに、出席者は少数。時に、一人だけの時もある。お仕着せの学問が嫌われる風潮が蔓延していた。

履修している科目は少ない。自分で選んだ分野の本を読みあさる日が続いていた。繁華街にある貿易を糧とした店が本屋を設けていた。その4階で、本を漁っていた。時に、彼女と喫茶店に行き、楽しい語らいがあった。

連日のデモが繰り返されるようになり、バリケードが築かれ、最後には閉鎖されてしまった。

高校生の頃、父のビジネスモデルが変わり、建築ブームで多くの人が室内装飾を要望し、それに応えるように小さなインテリア店(室内装飾店)を起業した。まだ、十分な収益も上がらない中、息子の希望する写真機を買い与えた。カメラを買って貰った息子は現像焼き付けを楽しんでいた。白黒からカラーに変化し、高額な資材をまかなえず、断念した。

「絵」が好きなのだろう。キャンバス・F8号を買ってきた。油絵の絵の具を買い、筆を3本買い、ペインティグナイフを買い、絵描きのまねごとをし始めた。パレットを買うだけの余裕がなくなり、当時流行っていた「竹踏み」のために竹を切り出した。竹を半分に割り、土踏まずを時にマッサージするように踏んでいた。「半分割りの竹」をパレットにした。

キャンパスが閉鎖された頃、ひまわりの絵と丘の上の家を描いた。3枚目を描き終わった頃、絵の具の一部が切れてしまった。絵の具は高い、もう余裕がなかった。油絵を塗るとき、どうしても筆で撫でてしまう。その線が気に食わない。何か方法がないかを探り始めたが、点描を思いつくこともなく、絵画の技法を工夫する考えも思いつかず、撤退した。F8の白いキャンバスが1枚、白いままに残っている。竹のパレットも当時の色使いを残したまま、今も土踏まずを撫でてくれる。

※「三竹士」に浸る中、ミムコさんの「縱スク」に呼び起こされ、半竹のパレットを思い出してしまった。