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38は母のマジックナンバー

父は母の勧めで、広島の親戚筋の会社に通うことになった。しかし、組織に馴染めなかったのか、仕事に馴染めなかったのか、独立して家具製造や修理を始めた。予想通り、生活が楽になるような状態ではなかった。

中学校に入学する頃、戦後経済は復興しており、経済成長への道を歩んでいた。そんな折、家具製造・修理をしていた父の元に織物会社からセールスマンが来て、室内装飾の勧めがあった。

そうしたとしても、母は自分の希望が叶えられるようなものにはならないと判断した。母の小反乱があった。このままでは子供に教育できない。私も別の働きをしますと。

駅には近いが、繁華街よりは離れている場所で、角地にある家を借りることになった。その場所で、父が営業する室内装飾店と、母が営業する八百屋をすることになった。母の生い立ちでは商売をすることは想像もできなかった。しかし、母は奮い立っていた。

当然、野菜の市場での仕入れには、母が行くことになった。母にとっては初めてのことであるし、母は若いときに、電話交換手や保育園の先生をしていたとしても、想像できるものではなく、決断したとしても、成し遂げることなど適うはずもないと思われた。それでも、母は一念で臨んだ。

青果市場(せいかいちば)では、セリが行われ、落札したとき、落札者は番号で呼ばれる。母の番号は38番だった。どうも年齢から来ていたらしい。当時、青果市場で取引に参加する人はほとんどが男性で、女性は2人だったと聞かされた。今で言えば、アラフォーであるが、青果市場の中でも際立っていたはずである。母は「華のある人」だったと、人から聞かされていた。父が「執拗に」ともいえる程、仲人に「絶対、結婚したいと」訴求していた。父も結構当時男前の方だったが、母はしょっちゅう愚痴をこぼしていた。「おとうさんはしつこいんじゃケー」(時々方言を使っていた。「なかなか諦めなかった」という意味です。)

38番の野菜を見る目は確かだった。小さい頃から料理もこなし、しかも美味しかったはずである。野菜料理や肉料理も上手だったが、沖縄が復帰する以前にも、天ぷらを作った際には「サーターアンダーギー」のような玉状の揚げ物をよく作っていた。妻が感心したように、「あのおかあさんの味は出せんね~。」食材に対する見識が高かったような気がする。(リトルGoku:妻のも十分においしい。)※リトルkjuroさんからお借りしました。

38番が目を付けた野菜は競りが行われると、値が上がることが多かったが、その内、競りに参加する多くの人は、38番と競うと、「高くて売れないよ。」といいながら、競りから遠のいていった。母の言葉を借りれば、「男どもは肝っ玉が小さいんじゃけー」。38番はそれほど苦労することなく、よいと思われる野菜が容易に手に入るようになった。

その野菜を料理方法などを教えながら、売り切っていった。店番を任されているときにも、かなりの人が野菜をあたりまえかのように買って行っていた。客が呟くように「ここの野菜はうまいんじゃけー」というのは何度も聞いたことがある。38番は仕入れもうまく、売りさばき方も心得ていた。今まで経験もなかったことを期待以上にこなしていった。

いつも母は自分の父親や兄のことを語っていた。母の祖父は明治維新以後毛利藩から離れ、興した事業に苦杯を嘗めた。そのような環境の中、母の父は刻苦して勉学に励み、国木田独歩に「非凡なる凡人」と言われるほど資質・意欲をもって臨んだ。大学卒業後、電気技師として働いていたが、人生半ば過ぎで早世した。ちょうど進学時期にさしかかっていた母の兄は、父の早世をものともせず、「われらが日ごろの 抱負を知るや 進取の精神」という校歌の大学に進んでいた。

母は父や兄が大好きだったし、尊敬していた。兄の通った大学の校歌をいつも口ずさみ、父や兄のことを思い出しながら、いつも心を奮い立たせていた。母をそばで見ていると、自分の父や兄の持っていた「進取の気風」が垣間見え、「進取の精神」を理念とし、地で行っていた。

後年、母が商売を辞めてからも、知り合いと電話してるときに、つい自分のことを38番と言ったりしていた。

ーーおわり:エスのいた日