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木の価値について考えてみる(その2)

4期生の大賀です。

先日、住んでいる池河という地区でお祭りがあり、そこでスウェーデントーチを燃やしました。

これまでに何度もスウェーデントーチを人に紹介してきましたが、今回もみなさん関心してその炎に見入ってくれました。

こいつの価値はいろいろありますが、「丸太1本ですべてが完結している」というシンプルさも価値の1つです。

↓右がヒノキ、左がスギ

必要な道具はチェーンソーのみ。「ワシにもつくれそうだから裏山の木を切ってつくってみるか」という人が出てきたら面白いなーと思います。

炎が燃え尽きるころに子供たちが寄ってきたので、持参したスギの枯れ葉を手渡して「燃やしてみー」と伝えました。

案の定夢中になって燃やし始め、そこいらの枯れ草を大量に集めて投入する子もいました。

トーチの周りで炎を鑑賞する大人たちと、火をくべている子どもたちが感じている炎の価値は別物だろうな、と思いながらその様子を見ていました。

なんというか、それに関わろうとしている態度の違いでしょうか。


広葉樹の葉っぱ

さらに先日、長野県の山を見る機会をいただき、アファンの森、荒山林業さんの山、戸隠神社の山道を歩きました。

人工林として植えられているカラマツ(針葉樹)のほかにもたくさんの木がありました。

落葉広葉樹の葉っぱは色付きはじめていて、黄や赤、茶や紫に染まった林内を歩くのはほんとうに気持ちのよいものでした。

戸隠神社では同行していた京大名誉教授の竹内先生の案内のもと、そこにある木を歩きながら説明していただきました(聞けばなんでも答えてくれるので、どこかのデータベースに接続されているのかと思った)。

ブナ、ミズナラ、ホオノキ、トチノキ、コナラ、イタヤカエデ、イチイ、シラカンバ、カツラ、ヤマブドウ...もっとあった気がしますが忘れてしまいました。

落ち葉を見ながらそれがなんの木かを考えるのは面白い体験で、なにより色づいた葉っぱの鮮やかさは目を引かれました。

「幼稚園なんかに葉っぱを持っていくと喜ぶよ」と竹内先生はおっしゃっていました。

なるほど1枚の葉っぱにも価値があるんだなーとそこで気付きました。

(ちなみにそんなことやりながら歩いているのは僕らだけでした)


木とか山との関わり方

今回、広葉樹の森を歩いていて、子どものころに遊んでいた里山の風景をずっと思い浮かべていました。

まえにも書きましたが、木にはいろんな使用価値があると思います。

山には多面的な価値があるとよく言われますが、僕がまず思い浮かぶのは山にある木の身近な有用性(なにかしらの役に立つこと)です。

木を燃やして暖をとる、木の実を収穫して食べる、山の中で遊ぶ、木陰で休む、木をつかって工作する、など。

それらは人が山や木と関わろうとして生まれる価値です。

おそらく理想を言えば、それらの価値が一過性の体験でなく、普段の生活と連続していることです。

そうやってできたのがいわゆる「里山」なんだろうと思います。人が積極的に生活の一部として関わってきた山の姿ではないかなと。

その連続性そのものが、大げさにいえば美しいというか尊いものだと僕は感じます(ファッション的じゃないので)。


・・・

観光客のようにお客さん的に山や木と関わるのも楽しいですが、せっかく津和野に住んでるんだから、日常生活の一部にも使わないともったいない。

まとまりませんが、そんなことを考えました。

おしまい。


関連記事:木の価値について考えてみる

書いた人:4期生大賀

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