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人生に乾杯 9

患者情報の病院間共有について、日本とシンガポールの違い光を当てて話したい。

2012年春、シンガポールにほぼ初めて降り立った年に驚いたことがある。地下鉄(MRT)に乗ると、病院のX線画像を袋に入れて持ち歩いている人を一定の率で見かける。何かと思っていると、しばらくして謎が解けた。病院が画像を患者本人に渡してくれるのだ。X線だけではない。CTもMRIもCD-ROM(DVD)も、あるいは診療結果報告書(日本でいう「カルテ」に類する)ですら情報保持者へ渡される。シンガポールの医療業界では、医大卒業後に公立病院に勤務した経験を提げて独立するか、より高給なプライベート病院へ転籍するケースが散見される。技師、看護師なども転職を繰り返すから、必然的に分業が進む。欧米や東南アジアの民間企業と一緒だ。Orchard通りに面する商業ビルParagonには個人事業のクリニックが山ほどあり、彼ら彼女らがMt. Elizabeth、Raffles Hospitalなど大手の手術室を借りている。2019年に私が大腸がんで最初に受診したParagon内のJGCは、シンガポール人医師で消化器腫瘍の権威につないでくれたが、彼もParagonにクリニックを構えていた。彼から指定された手術場所はConcord International Hospital、島の少しはずれにあった。

患者情報記載の書類のやりとりに滞りがあると病院同士が困るように、システムができあがっている。症状に関する個人情報が一箇所で目詰まりするなど、あってはならないことなのだ。街中には医師個人によるクリニック、X線やMRIなどの技師集団チェーン、看護師派遣、病院経営者など専門業者が林立。大手病院でさえ個人医師のオフィスが集積し、「独立医師の集合体」という色彩が強く、一方で病院経営者は日本の感覚では不動産業に近い。私が成田入院中の9月4日にRaffles Hospitalの医師とZoom会議をしたのも、こうした情報共有に関する考え方がベースにあるためだ。この時はさすがに感心した。

情報共有という点で、シンガポールでは私が加入していた保険商品にまつわる話があった。個人口座を持つシンガポールの銀行経由で米大手保険会社の金融商品を購入した。2018年後半のことで、妻とっこが乳がんになった後のこと。本来の手術・入院費用などを給付してくれる医療保険とは別の金融商品で、日本では「シンガポールには魅力的な金融商品がいっぱいあります!」と高利回りを宣伝する、あれである。シンガポールで外国人が入れる保険の中から私はシンガポールローカルの手術入院保険NTUCと、この米保険会社のものに加入した。

米保険会社からは一通りの告知書類の記入が指示され、2019年8月に提出した。だがこの時、さらに遡ること数年前に自身の心臓に不整脈があって大病院を受診したことを忘れていた。当時、医師からは「大したことない。胃の調子が悪くても心臓の不調が出ることもある」と言われ、診断書すら出なかった(と、あとで思い出した)。ところが、昨年自身の大腸がん後に手術による還付を受けようと申請したところ、米社から翌2020年1月になって心臓の事実を指摘されてしまったのだ。相手からは「この嘘つき」と疑いの眼差しが注ぐ中、私は驚愕の事実にただただ唖然とするしかなかった。交渉の末、結局今年2月には一定の減額を要請され、保険エージェントからの薦めもありそこで妥結。結果的には掛け金以上のものが還付された。この直後にNTUCでも入院費用の全額給付が決まった(心臓不整脈の事実を特定していたかどうかは定かではない)が、あと味が悪かったことには変わりがない。

一方の日本はと言えば、これが心許ない。例えば高額医療費の助成。私は前年所得が日本で捕捉されていないので、帰国時に「限度額適用認定証」の区分エ(最低ランク)を発行された。月額5万7000円余りを上限に支払えばいいのだが、これは病院間の情報共有は皆無。A病院とB病院の支払いが「それぞれ」5万7000円の意で、合算ではない。このヨコの情報共有がないのは、日本の医療制度の課題と言える。年度末の調整の時、税務署税務官への説明次第で合算超過分が返ってくるのかも分からないが、今のところそうした話も聞かない。

画像の交付交換などまずありえない。45歳で日本国外での暮らしを始めるまでは不思議ではなかったが、シンガポールで医療行為を受けるようになると、あれこれ日本の不思議が見えてくる。これも2年ほど前の話になるが、日本出張でJR新橋駅前の整形外科に立ち寄った際、指だったか肩だったかのレントゲンを撮り、シンガポールでは当たり前になっている撮影画像請求をクリニックにしたところ、怪訝な顔をする看護師は、DVDに焼いてくれたものの別料金を請求してきた。2000円くらい。少額だが、そもそも画像を交付するという前提がないことに私は驚いた。クリニックを訪れた人は、よそへ行かないと思っているらしい。当時は、そんな風に考えていた。

(「患者」の「患」は、「心を串刺しにすると書く」と読んだ記憶がある。「自分の心を串に刺されてたまるか」と思えば、できる限り使用を避けている。続く。)