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人生に乾杯 5

山井大輔君(仮名)のことを紹介したい。大輔はもう30年以上の付き合いになる「腐れ縁」という間柄だ。大学入学前の予備校時代、まだ互いに最後の10代の時に知り合い、彼は医学部に進学。今は某病院の先生をしている。私を国際医療福祉大学成田病院につないでくれ、またこのブログを書くことを強く勧めてくれた人だ。

妻十久子(とっこ)が大輔に初めて連絡を取ったのが、自身の症状が悪くなって少し経った6月初旬。私と大輔が関係あるのを知ってのことだった。この時の妻は帰国直前だったのに、政府に就労ビザの件で連絡を取ったり、引っ越し業者や住んでいたコンドミニアム(日本のマンション)の大家さんに猶予を願いながら、私の入院手配をしてくれていた。ジグソーパズルを埋めるかのごとく、泣きながらも連絡に追われ、すべて埋め切ったのが彼女だった。

妻から電話を受けた大輔は、すぐさま尋常ならざる事態を認識した、らしい。彼は元同僚の別の医師(脳外科)に連絡。医師は最初から私の脳腫瘍を疑い、今年3月に開院したばかりの成田病院を紹介してくれた。当初目論んでいた都内の専門病院が新型コロナの院内感染で新規受け入れを停止するなど、難儀の末だった。しかし、お陰で7月14日に成田空港に降り立ち、都内を通過することなく、また入院まで日数を待たされることなく、空港から都内知人夫婦S家の車で10分ほどの病院にその日のうちに入ることができた。僥倖だった。退院後、お世話になった脳外科医の病院へ訪問も考えたが、都外に出るには免疫が多少落ちている自分には不安が残り、残念ながら今は休止している。シンガポールから何度か電話で話した妻によると、この医師は稀代のコミュニケーターらしい。メールからもそれを感じることができた。

大輔に話を戻す。直近に会った昨年初春(私の大腸がん発覚前)に都内の小さな寿司屋で2人飲みした時のこと。相手が医者だったので、私は妻を引き合いにシンガポールの「早さ」「丁寧さ」を力説した。一方の彼は日本の国民皆保険の利点を懸命に説いていた。当時、「大輔は防戦一方だったなぁ」とやや切ない気持ちになったが、後で勘違いを知るところとなる。

この大輔には憎めないところがあって、同じ寿司屋で私がトイレに行って戻ってくると、すでに半分酔いつぶれ、トロを3貫ずつ(計6貫)と日本酒を追加注文してニヤニヤしていた。今回の入院騒動でも、8月10日の夜10時過ぎにSNS経由で電話が掛かってきた。発信者は大輔の表示になっていた。これまで帰国、入院、治療開始などの連絡はメールでしていたし、時間も時間だったから半ば訝しく思いながら、病院相部屋の人に気を使って廊下に出た。とにかく私の話に「うん、うん」と相槌しか打たない。酔った大輔の典型だ。そうと分かれば気持ちは逆に嬉しくなり、余計に自分の話をした。会話の最後に「頑張れ」と言われた時には涙が出た。退院後のビデオコールでも「オレ、がんの専門じゃないからさー。分子標的薬(註、私が使っているAvastinのこと)とかになると全然分からないんだよねぇー」と嫌味なく、しれっと言う。そんな彼の顔を思い浮かべると、ついニヤニヤしてしまう。

大学入学前には実家へ遊びに行き、大学卒業後も何度も飲み交わした仲。予備校時代、同じ釜の飯を食べた寮は建物が私鉄沿線に建っているのだが、屋上に夜中、こっそり忍び上がり2人で飲みながら電車のヘッドライトが通り過ぎる光景が、今でも目にこびりついている。もう一生足を向けて寝られないのは変わらない。大輔、ありがとう。

多くの人にお世話になったが、シンガポールからもう1人紹介したい。Wangi Edward(仮名)。私がシンガポール移住前に在籍していた米調査会社で、シンガポール支社のヘッドをしていた。私はその後の2008年に東京のヘッドになったので、シンガポール人の彼女は先輩に当たる。今は大手石油会社でGovernment relationsとして勤めてながら、ヨーロッパ出身の旦那さんと一緒に、我々家族がシンガポールで暮らすための多くの手引きをしてくれた。逸話を1つだけ披露する。家族で日本の夏休みを楽しんでいた2018年、都内で人間ドックを受けた病院から突然の電話があり、妻の乳がんを告げられた。家族が悲嘆に暮れる中、私がWangiに医師紹介の依頼で連絡を取ると、「次の3人から希望の人を選んでほしい。私の親戚の知り合いの知り合いから紹介してもらった。誰を選んでも遠慮は不要」と、3候補と共にメッセージが添えてあった。普段は返事に24時間かかるほど忙しいのに、この時の返事は1時間後だった。Edward夫妻にも本当に感謝している。

(写真は2020年8月10日、成田病院の自室からの夕日。続く)