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人生に乾杯 26(乗り移り?)

米国に住んでいる英国人Andrew Marshallは、前職の数少ない親友(の1人)。その前は元ジャーナリストでこれも僕と一緒だったが、彼は今、米Atlantic Councilに勤めている。前職時代に僕が東京にいて、彼はロンドン。その後同じ会社ながら米NYに移った。彼が結婚したのは、お互い別々に職を離れてからの2011年夏。米国Maine州で開かれた結婚式は、真夏の野外だったのに少し寒かったのを覚えている。300人以上が集まった、それはそれは盛大だった宴席だった。

本ブログ冒頭の絵は6歳になる彼の娘さん、Aliceが今年2月上旬に描いたもの。正確には「Andrewと一緒に」描いたらしい。彼のSNSに「"I am really enjoying painting with my daughter"」とのキャプション付きで上がっていた。AliceがAndrewと仲良さそうに絵の具で遊んでいる姿が目に浮かぶではないか。思い立って本人にブログに紹介してもいいかと聞いたら、時差をものともせず、間髪入れずに「I would be honored!!!」とビックリマークが3つ付いた返事が返ってきた。

思い立ったのには理由がある。成田で入院生活を送っていた昨年、退院するいち日前の9月10日に自分が描いたスケッチが頭にパッと浮かんだからだ(写真下、2020年11月20日に本ブログNo. 20で公開)。地平線を境に上は青、下は緑。青空に飛行機が着陸体勢に入ったのを除けば、AliceとAndrewが描いた絵とウリ二つだ。何かが乗り移ったのかな?

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思えばAndrewとの接点はこれまで沢山あった。前職時代もそうだったが、退職後の2015年に東京で再会を果たしたことは、今も忘れられない。彼が亡き父の遺品を広げたら1944年当時の日章旗が出てきたのだが、父が所属する英国軍が、旧日本帝国軍を攻め入ったビルマ戦線で拾ったもの。そこはすでに死体が縷々と積み上がっていた。印緬国境の都市コヒマの「白骨街道」が日本では有名だが、おそらくその辺りだろうと彼は言う。Andrewと私が東京で落ち合って栃木県まで新幹線で向かう車中、「日章旗はそこに入っているの?」と聞く僕に、真剣な中にも笑みがほの見える表情を作って、持っていた黒カバンをポンポンと2回叩いた。訪問の経緯は当時の新聞やテレビで流れた。

その思い出は変わらない。が、僕の思いそのものはガラッと変わった。当時はAndrewの気持ちを思いやるに精一杯だった一方で、今は、長いか短いかはともかく自分の人生にどこかで区切りが付くことを痛感する中、1944年当時のビルマ「白骨街道」が遺体の山だったことに心が痛むのだ。この人たちは何のために戦ったのか。死んだ人たちを見送ってくれた人たちはいたのだろうか。祖国で残された家族はどう思ったろうか、と。今もミャンマー(当時のビルマ)はクーデターに揺れる。

そういえば、藤元明緒さんという映画監督は日本に住むミャンマー人を映画にした「僕の帰る場所」(2018年)や短編「白骨街道」(2020年)を制作する新進の監督。本ブログを書くのに調べるまで僕は知らず、不明を恥じるばかり。

Andrewは、本人がどう思っているかはともかく、僕の親友として間違いなく筆頭にあがる。そういえば、親友はとても少ない。思いつくにもう2人いるが、その話は別の機会に。

(続く。)