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人生に乾杯 10

成田に入院した直後の7月下旬、廊下を挟んだ向かいの部屋に入っていた40代の女性と少し話す機会があった。僕がシンガポールで6年以上続けたヨガを、病院の廊下でやっていて向こうから話しかけてきた。「精が出ますね」。そこからお互い症状の話になった。彼女は地元北総の出身で、馬舎で調教をしているという。「馬の後ろ足で後頭部を蹴られた、と思うんです」。本人にはその時の記憶がないらしい。後ろ足で後頭部を蹴られて、脳がその衝撃で前の頭蓋骨にあたり前頭葉をやられたという。2週間は経過観察で入院となった。彼女は退院後、しばらく経って僕も入っていた7階の病棟(新型コロナなのでガラスドア越し)に顔を出し、看護師に挨拶していた。そういえば、退院後に診察があると話していたっけ。笑顔で嬉しそうだった。離れたところからその顔を見て、僕は一瞬彼女を思い出しかけたものの、向こうが早く退院した嫉妬から笑顔を作ることができなかった。Front Lineと呼ばれる医療従事者にお礼を言いおうと決めたのは、このすぐ後だった。

当時の日記をめくると、看護師18人、リハビリ士2人、主治医2人の名前がそれぞれ特徴と合わせて1行ずつ書いてある。何かの機会にと書き溜めておいた。「特徴」は見た目だったり、生活様式だったり、自分と話した内容だったり。「おばちゃん、チャキチャキ」「佐賀生まれ」「日暮里から通勤」「思いのほか口元が小さい」(マスクをしているので口元が普段は見えない)など、今にして思えば失礼極まりないことも書いてある。

その中で1人、特に記憶に残る人がいる。山崎摩耶さん(仮名)、おそらくこの春に大学看護学部を出たところだ。日記を見ると8月16日となっている、その当直時間夜10時過ぎだろうか、馬の調教師をしていた人が出た後の部屋で、その後に入ったおばあさんが「アタシ、もう帰る!」と怒鳴っている。部屋も廊下も暗がりの中、相手をしていたのが山崎さんで、「本当にすみません。私が悪かったです」と泣きそうな声で謝っている。「ここじゃアンタ、朝食は8時にならないと出てこない。日中アンタらに頼んでもすぐ来ない。もう家に電話して帰るって言ったから帰る!アンタじゃ話にならない!」と、廊下まで響く声でやりあっている、というかおばあさんの言いっ放しだ。そのうち山崎さんに入れ替わって別の階から責任者らしき人たち3人がおばあさんをなだめてすかし、15分くらいで騒ぎが収まった。騒動の最中、誰もいない廊下で山崎さんとすれ違ったら、彼女は僕を見るなり「やっちゃったぁ〜。もう泣きそうですぅ〜」と顔をしかめ、背中を丸めて弱り込んでいた。僕は、大丈夫大丈夫、そんな人はいるもんだよ、とかなんとか言って相手の肩をポンポン叩いてあげたのだが、瞬間、「この子(看護師)も人間なんだなあ」と思ったのだ。

彼ら彼女らとの会話からは、そのひととなりや日常生活が見えてくる。日記に「バスケの人」と書いてあるが単なる自分の想像に過ぎず実際の趣味はサーフィンだったと後で分かったり、「柔道家」看護師男性を慕う女性は「あの人とても優しいんですよ」という話から自身のプライベートになったり。米国から帰国して5年になる日本人は元々英語で看護師の勉強をしていたので、今でもGoogle translateで英→日の訳を確認するケースがあると話していた。僕の担当になるとまずは天気の話から入る(典型的な)人だったが、「週末吉祥寺まで友達とご飯食べに行ってきたのよ。楽しかったなあ」とか、病棟で顔を合わせば「今日から日勤4連チャンなの、げっそり」とぼやいていた。そこには、人生が透けて見える。

元々本稿はシンガポールと日本の医療業界の違いから、主には後者をジャーナリスティックに腐すことを目的とはしているが、第5号(9月28日)に紹介した旧知の山井大輔を含め、個々の人々には心から感謝を申し上げたい。

(写真は僕が関わったシンガポール公認不正検査士協会(Singapore ACFE)から送られた花束(7月30日)と果物(9月2日)。2回も送っていただいた。続く。)