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【厳重警告】 映画『ジョーカー』に「共感」してはならない。

【『ジョーカー』/トッド・フィリップス監督】

まもなく幕を閉じようとしている2010年代。この混沌のディケイドを席巻したのは、「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」「ゲーム・オブ・スローンズ(GOT)」という2つの超大作シリーズであった。

しかし、たった1本の映画が、それら全ての衝撃を超越しようとしている。世紀の問題作。2010年代の最後に、この世界に生まれ落ちてしまった狂気の化身。それが、映画『ジョーカー』である。


『ダークナイト』に登場したジョーカーは、完全なる「空白」の存在であった。そこには、一切のコミュニケーションの余地はなく、だからこそ絶対的なカリスマ性を誇っていたといえる。

しかし、今作で描かれるのは、あまりにもリアリスティックで等身大なアーサー・フレックの人生だ。貧しい生活。心臓と精神を病んだ同居人の母。予算の削減による福祉支援の打ち止め。そして、脳の損傷に由来する「笑い」の発作。

不憫だろうか。可哀想だろうか。あなたは、彼に同情するだろうか。アーサーの困窮した暮らしを観ていると、「共感」という、いかにも性善説に則ったかのような感情が芽生えそうになるだろう。だからこそ、危険なのだ。


僕は思う。その「共感」は、アーサー個人に向けられるべきものであって、決してジョーカーに対して捧げられるものではない。なぜなら、アーサーという一人の人間の人生の延長線上に、ジョーカーが生まれたわけではないからだ。

たしかに、アーサーは想像を絶するほどに困難な人生を歩んできた。しかし、彼が、いや、彼だけが、ジョーカーへと変貌を遂げる「必然」は、どこにもなかったはずだ。もし、冒頭のバスのシーンで、子連れの母親から「ありがとう」の言葉をかけられていたら、アーサーの人生は全く異なるものになっていたかもしれない。彼の、いや、誰しもの人生は、そうして形作られていく。

言葉を変えれば、誰しもがジョーカーとなり得る「必然」など、この世界には存在しないのだ。悲哀な「偶然」が重なり、いくつかのボタンを掛け違えたまま物語は加速していき、極限まで精神を蹂躙され、そして彼はジョーカーになってしまった。

決して、全ての「悪」の裏側に、アーサーの「共感」すべき物語があるわけではない。貧困層の象徴として描かれる彼に、「悪」の理由を押し付けられることがあるとしたら、僕は強く異を唱えたい。同じ理由で、今作の公開後、アーサーへの「共感」から転じて、熱狂的な負のムーブメントが起きないことを望む。


何度でも強調するが、アーサーとジョーカーは別の存在である。全く異なる人格への変貌を描いているからこそ、この「映画」は「フィクション」なのだ。そして、その変貌の境界が、今作では極めて曖昧に描かれている。この映画は、だからこそ恐ろしいのだ。

あなたは、その変貌の瞬間を、思い出せるだろうか。きっと、そのシーンは一つではないはずだ。彼がいつジョーカーになったのか、僕たちは明確には分かり得ないのだ。観る人の数だけ、「アーサーがジョーカーになった理由」が存在する。そして、あなたの脳裏によぎった「理由」が、ゴッサムシティに蔓延する狂気を通じて、あたかも「悪」の根源であると錯覚してしまいそうになる。

その曖昧な理由で、僕たちは善悪のジャッジを成せるのだろうか。決して、そんなことはないはずだ。劇中で描かれるのは1981年。そして、同じくジョーカーが究極の問題提起を果たした『ダークナイト』が公開されたのが2008年。悲しいことに、今、僕たちが生きる2019年は、その当時と比べて、善悪の境界線はより曖昧になってしまった。より複雑になってしまった。そして、善悪の溝はより深くなってしまった。

それでも、今、現実のアメリカが、いや、世界が、本当に弾圧すべき「悪」とは何か。それは、なぜ、どこから、いつ生まれてしまうのか。僕たちは、その構造から目を逸らしてはいけない。「悪」の正体を、「共感」というベールによって覆い隠してはいけないのだ。

今作は、ジョーカーによる宣戦布告だ。そして、その戦争から、僕たちはもう逃れられないところまできている。この映画が、観客に壮絶な覚悟を求めるのは、それ故だ。


僕は、今作の最後の台詞に、僅かながらの救いを見い出した。そうだ、もう僕たちには、ジョーカーの「冗談」を「理解」できないのだ。「共感」なんて、無駄なのだ。ジョーカーとなってしまった彼を前にして、そんな生温い言葉たちはあっさりと無化されてしまう。

戦争。テロリズム。圧政。差別。殺人。全ての根源として、絶対的に遍在する「悪」の象徴。私怨や損得勘定、個人の価値観/正義感、そうしたあらゆる私性を超越した「空白」の存在。ジョーカーには、これまでも、そしてこれからも、そんなキャラクターであって欲しい。そしてもちろん、それはフィクションの世界において、である。


今、僕たちが生きるこの現実世界は、かつてないほどに混迷を極めている。その意味で、この122分間が、ただの「映画」であるとは、僕にはとても信じられなかった。

そして、同じだけ強く、これが「映画」であって欲しいと心から望んだ。これこそが、「映画」であると確信した。

きっと、様々な論争が巻き起こるだろう。もしかしたら、この映画の公開をきっかけに、現実世界の「悲劇」は加速してしまうかもしれない。

それでも、今作の製作陣は「映画」の可能性に懸けた。

次に問われるのは、僕たち観客である。




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