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表現の未来を『DEVILMAN crybaby』に懸けよう

【『DEVILMAN crybaby』/湯浅政明監督】


観る人によっては、嫌悪感を抱くどころか、吐き気を催すほどの強烈な拒絶反応を示すかもしれない。

『セブン』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ミスト』といった映画史に残る「トラウマ映画」と比較しても、このアニメが視聴者に与える傷はあまりにも深い。

永井豪による漫画『デビルマン』は、これまでにも幾度となく映像化されてきた。しかし、あの作品の「衝撃」が一切薄められることなく、妥協や忖度もなしに、つまり、これほどまでに「正しく」映像化されたのは、間違いなく今回が初めてだ。

殺したい、叫びたい、壊したい、犯したい。

止めどない暴力衝動と性衝動に突き付けられた時、それでもなお、僕たち「人間」は「悪魔」と異なる存在であると言えるだろうか。

「悪魔でも人間でもない(NEITHER DEMON NOR HUMAN)」とは一体どういうことか。

その刃物のように鋭い問いかけに、常に喉元を撫でられているような、一瞬たりとも緊張の解けない圧巻の視聴体験だ。少しでも分かったふりをした途端、感情を深く抉られる。

物語が残酷な方向に進めば進むほど、おそらく多くの視聴者は、無意識的にあるキャラクターを心の拠り所にすることになるだろう。なぜなら、「それでも人間は、人間らしく生きることができる」ということを、まだ心のどこかで信じていたいからだ。

嗚咽が出るほどに辛いのは、だからこそ、だ。

そして、この作品が恐ろしいのは、徹底的にハードでディープな世界観でありながら、同時に途方もなく「ポップ」であるからだと思う。

今作の監督を務めたのは、細田守、新海誠と共に、日本のアニメ界を牽引する湯浅政明。

マッドでありながらファンシーなキャラクター造形、サイケデリックでありながらも見覚えがあるような情景描写、明らかに異質だからこそ、一周回ってコミカルなアクションシーン。

昨年公開の映画『夜は短し歩けよ乙女』『夜明け告げるルーのうた』がまさにそうだったように、湯浅監督の画には、無条件で観る者を惹きつける力がある。

そして、エッセンスとして大胆に取り入れられた「日本語ラップ」と「川崎」という2つの要素が、この物語に軽やかな現代性を与えている。

この作品の「ポップ」な装いは、湯浅監督の圧倒的な技量と確かな批評性に起因している。何度でも言うが、だからこそ恐ろしい。

『DEVILMAN crybaby』は、映画やテレビといった既存のメディアを経ることなく、「Netflix」オリジナル作品として、ある日一瞬にして全世界に同時配信された。

あらゆる規制から解き放たれた"治外法権"の空間から、こうしたエッジーでエクストリームな表現が世に出た。これは時代の必然だと思う。

僕たちが心の底から求めていたのは、これほどまでに過剰で過激な表現だったのだ。

「Netflix」の台頭は、映画・テレビ業界にとって脅威でしかないはずだ。間違いなく、ここから表現の世界は変わる。

ネット配信作品であるが故に、テレビアニメよりも子どもの目に触れにくいことが不幸中の幸いだが、『DEVILMAN crybaby』は観る者の価値観や倫理観をいとも簡単に覆してしまう。

それでも、こうした作品が「正しく」受け入れられ、評価されてこそ、2010年代の表現は次のフェイズに進める。

ポップカルチャー史は、いつだってそのようにして受け手によって紡がれてきた。

気軽に誰かに勧められるような作品ではないが、僕はこうしたエンターテイメント作品こそ必要だと思った。

この作品で描かれる世界に比べれば、もしかしたら、僕たちが生きる現実の方がまだ少しは平穏かもしれない。それでも、そこに横たわっている問題の本質は同じだ。

だからこそ、いつかそれに向き合う時のために、しっかり受け止めておくべき作品だと感じた。


※本記事は、2018年6月5日に「tsuyopongram」に掲載された記事を転載したものです。

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