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なぜ『天気の子』は、全ての選択を「祝福」するのか?

【『天気の子』/新海誠監督】

3年前、僕が『君の名は。』を観て強く心を震わせられた理由は、大きく2つある。1つは、あの作品が放つ《運命は、運命を変えられる。》という肯定のメッセージだ。運命は、単に受け入れるだけのものではない。「運命の赤い糸」をテーマにした恋愛映画は数あれど、これほどまでに力強い確信を伝える作品は稀であり、この眩いメッセージは、公開から何年が経っても決して色褪せることはないと思う。そしてもう1つの理由は、他でもない新海誠監督が、その輝かしいメッセージを堂々と伝えてくれたことだ。それは、それまで『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』といった新海監督の過去作に惚れ込んでいた僕には、想像もできないことだった。彼の才能を、東宝というメジャーの舞台で開花させた川村元気の功績が大きいのは言うまでもないが、新海監督自身の決意と覚悟がなければ、この普遍的な魅力を誇る国民的大ヒット作は生まれなかったはずだ。

そして、この『君の名は。』は、新海監督を次なるステージへ導いた。それが、3年ぶりの最新作『天気の子』である。僕はこの作品を観る前に、その内容について次のように思い巡らせていた。『天気の子』は、『君の名は。』路線を踏襲するのか。つまりは、新海監督は今回も「王道エンターテインメント」を目指すのか。それとも、その卓越した才能が世界に広く受け入れられ、絶大な評価と支持を得たこのタイミングだからこそ、より強く「作家性」を押し出した作品を作るのか。僕の安易な予想は、どちらも外れていた。いや、正確に言えば、その両方の選択肢を、一切の妥協も迎合も忖度もすることもなく、見事にバランスさせた作品、それが『天気の子』であったのだ。

まず、「王道エンターテインメント」の側面について。青い爽快感と、加速する恋心。他者との関わりを通したアイデンティティの模索。予測不可能なストーリー展開がもたらす驚きと興奮、そして感動。今作は、少年少女の一夏の冒険を描いたジュブナイルとして、圧倒的な完成度を誇っている。ボーイミーツガール作品の新たな金字塔が打ち立てられた、と言っても過言ではないだろう。また、物語の後半において、人類への脅威として描かれる天気の描写は、まるで壮絶なディストピアSFのようなスリルを与えてくれる。想像を大きく超えて拡大していく今作の物語のスケールに圧倒された人は少なくないはずだ。そして言うまでもなく、新海監督が長年にわたり追求し続けてきた映像表現は、今作において新たな進化を見せている。特に、雨や光の神秘さを讃えるシーンは、どれも息を呑むほどに美しいものばかり。また、前作『君の名は。』の時と比べて、今作の制作により奥深くまでコミットしながら生み出されたというRADWIMPSの音楽も、帆高、陽菜に次ぐ第3のストーリーテラーとしての役割を見事に果たしている。

そして、今作において史上最大級に爆発した新海監督の「作家性」について。『君の名は。』では、瀧と三葉は、運命を変えることで世界を救い、新しい世界線において念願の邂逅を果たす。それはまさに、《運命は、運命を変えられる。》という力強い肯定のメッセージであると僕は受け取った。一方、『天気の子』はどうだっただろうか。帆高は、人柱となった陽菜を救うという選択をすることで、東京全域を雨水の底へと沈めてしまう。世界の形(さだめ)を不可逆的なまでに変えてしまったその選択は、今作の公開後、大きな賛否両論を巻き起こしている。

本来の世界の形は、人柱を立てることによって、日本に晴れた空を取り戻すことであったはずだ。(中盤の神社のシーンにおいて、そのようにして世界の平穏が保たれ続けてきたことが示唆されている。)しかし、帆高は、世界の形に抗い、陽菜と共に生きることを選んだ。たしかに、それは「正しさ」ではないのかもしれない。それでは、「正しくなさ」を讃えたこの物語は、間違っているのだろうか。僕は、そうは思わない。帆高の「選択」は、社会の価値観と決定的に対立する。共感できないと感じるどころか、強い嫌悪感を抱いた人もいるかもしれない。それでも、「大切な人と共に生きたい」という彼の純粋な想いそれ自体は、決して批判されるべきものではないはずだ。

不完全な社会において、不器用な僕たちにとって、全ての選択は、必然的に「正しくなさ」を内包していると言ってもいい。今作は、「正しさ」と「正しくなさ」の堂々巡りの果ての、理屈や論理を超えた次元の先の、もはや言葉にすらならない切実な魂の叫びを、一切臆することなく描き出している。それは、教科書には書かれていないし、ニュースでも報道されない。もちろん、政治家が語ることもない。それでも、いやだからこそ、その切実な叫びをファンタジーを通して伝え放ち、僕たちの前に容赦なく立ちはだかる「正しさ」を批評する。そして、言葉にならなかった、なれなかった心からの想いを、世界に向けて共有する。そんな奇跡、映画にしか起こせないと僕が思う。

切実な魂の叫びが、大空に向かって飛翔していく。そして最後には、「正しくなさ」さえも肯定し、華々しく「祝福」してしまう。『天気の子』は、新海監督の真摯で透徹な祈りであり、また、これまで数々の映画作りを通して、この世界を生きる私たちを肯定し続けてきた彼の確固たる信念の表れである。そうした彼の「作家性」が爆発した時のカタルシスは、はっきり言って過去作の比ではない。そして、僕が今作から受け取った《全ての選択を、祝福する。》という絶対的肯定のメッセージは、その深度において、完全に『君の名は。』を超越している。"グランドエスケープ"が響きわたる救済のシーンから、"大丈夫"が讃える再会のラストシーンに至るまで、僕はずっと心の震えが止まらなかった。

新海監督は、批判を恐れることなく、全く新しい物語、そして、その物語が秘める可能性を僕たちに伝え届けてくれた。彼のクリエイターとしての勇気に、そして今作に携わった全ての人たちの努力に、僕は最大限の敬意を払う。




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